南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー48

仏陀が排斥した「自我」

「自我」とは何か?

仏陀が否定した「自我(ママ、以下同様)」、その字面

上の意味は、主に「無我」という単語の

ニュアンスから、理解することができる。

たとえば、《無我相経》(Anattalakkhaṇasutta)

の中で、仏陀五蘊無我」という時、

彼は、無常なる事物は常に変異しており、

一度も我々が望むような結果を生み出した

ことはないのだ、と言う。

すなわち、これが「無我」である。

しかし、彼は、決して一度も、その反対は

「自我」であるとは、言ったことがない。

しかし、我々は、ロジック上において、

それの反対の概念は「自我」である、

と理解し、そのように受け取っている。

こうして、ある種の方面において、

混乱が生じた。

「自我」を有したいと望む人々は、即刻、

有為法の中の事物、たとえば、涅槃は

恒常不変であり、故にこれらのものごとは、

「自我」に帰納することができる、

と宣揚した。

彼らはまた、仏陀の教えた「『自我』を

拠り所にして」の中の「自我」は、

(+彼らの好むタイプの)「自我」である

宣揚した。

このような言い方は益々、涅槃を「自我」だ

と見做すような傾向に、人々を導いた。

彼らは、涅槃とは、事実上、何人の

コントロールも受けないものだ、ということ

を忘れている。

(+涅槃は)人々が如何にそれを得たいと

思っても、これまで一度も得られたこと

はない、というのも、それは人間の欲望を

超越しているからである。

《無我相経》の教義に照らせば、我々は、

涅槃または無為法を「自我」とみなすことは、

受け入れられない事だということを、

発見する。

ここまでにおいて、我々はいまだに、

人々が執着すべきでない「自我」という

ものには、どのような特性があるのかを

知らないでいる。

パーリ経典の中の《小部》

(Khuddakanikāya)とその他の経典の

中で、「諸法無我」とは、すべての個体

には、「自我」がないという意味で

つかわれており、完全に「自我」を否定して

いるものである。

しかし、それはいまだに、「自我」の特性、

あるいは世俗において、また一般の人々が

言うところの「自我」の概念を、我々に認識

させることはできないでいる。

しかしながら、もし、我々が一つの新しい、

簡単な問題を提起するならどうであろうか?

世俗的な言い方において、「自我」とは

一体どういう意味なのか?

また、仏陀の行った、世俗的な説法を

参照するならば、「自我」とはまた一体、

何なのであろうか?

「自我」とは肉体を言うのであろうか?

それとも心霊、それとも他のモノ?

我々は、仏陀が《長部》(DĪghanikāya)

の《布咤婆楼経》(Poṭṭapadasutta)

または《戒聚品》(SĪlakkhandhavagga)

の中で行った開示に、この問題の明確な

答えを見つけることができる。

それを順調によどみなく、はっきりと

理解するために、これらの経は、

子細に読まれ、研究されなければならない。

ここで私は、仏陀の説明を、一つ一つ引用

するが、そのため、話が相当冗漫になる

可能性がある。

どうか、注意力を集中し、詳しく細かく

考えていただきたい。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>