ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー51
空無辺処定(ākāsānañcāyatana jhāna)に
おいて、形態上の意識は消失し、空虚な形式
のみが、残る;
識無辺処定(viññānañcāyatana jhāna)に
おいては、意識上の空虚性は消失するが、
しかし、意識の行相をはっきりと覚知する
智慧が出現する;
無所有処定の中では、意識的行相を有する
意識は消失し、空的無一物の意識が出現する;
最後、禅定の最後のレベルにおいてはーー
滅尽定(saññāvedayitanirodha jhāna)の
中において、空無の意識も消失して、二度と
新しい意識が生じることはないがゆえに、
意識は完全に止息する。
そして、このような境地がずっと続くならば、
この段階において、我々は、意識が存在する
とは言えず、この人に感覚というものはない;
しかし、我々は彼の事を意識がないとは言え
ない。というのも、この人は、定から出た後、
依然として知覚を有しており、そのため、
彼の事を死亡したなどとは言えないが、
死亡していない、とも言えない。
この事は、人類のコントロール力または
行為によって、意識を完全に止息させたのだ、
と言える。
仏陀は最後に、遊行者に訊ねる:
以前、これに類した説法を聞いたことが
ありますか?
仏陀の説法を聞いた後、非常に感激した
遊行者は答える:
以前、これに類した説法を聞いたことは
ありません。仏陀の説明は、真に、
非常なる真実です。
この物語の意義は、意識の生・滅は、自我意識
が肉体に出たり入ったりするがためではなく、
また、ある種の超能力を有する人間の作用
でもなく、更には、上帝(=神)の力に
よってでもなく、または因なく、縁もなく
生起したり、消失したりするものでもない、
ということを、指摘したことである。
非常に明らかに、意識が生起した後、禅の
修習者の禅定によって、意識的活動は徐々に
止息し、最後には完全に消失する。
我々は、意識的活動は、確かに因縁法の規制
(=影響)のもと、言い換えれば、実践者の
行動と努力の力の下に、掌握されているのだ、
と言える。
仏陀のこの種の説法は、完全に「自我」を
否定している。
ある種の人々はこの種の「自我」を「真心」(cetabhūta)または「霊魂」(jĪvo)と呼び、
かつそれを、肉体の中に、出たり入ったり
することができるものだと、思いなしている。
上述の説法の中で、仏陀が暗示して指摘した
いわゆる「自我」とは、あれら「自我」が
あると信じている人々の妄想または無
明が造りだしたものだ、と言える。
彼らは、「自我」とは身体に出入り可能で、
かつ意識を出現させたり、消失させたり
するのだ、と言う。
同時に仏陀は、「自我」が上帝によって
操縦されること、上帝が一人の人間の意識を
生じさせたり、消失させたりするのだ、
という考えも否定した。
我々は、パーリ経典の研究を行っている
欧米の学者 Rhys David の説明に完全に
賛同する。
彼は言う:「『自我』を否定するすべての
経文の内、《布咤婆楼経》よりさらに精妙で
奥深く、明確なものは、ない。」
我々は更に一歩進んで、この経を研究する。
(+ )(= )訳者。(つづく)
★誤字脱字を発見された方は、当コメント欄
にてご一報頂くか、または<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>