意識と「自我」は同じものか、異なるものか?
布咤婆楼は、仏陀に問う:
意識とは、本当に、一人の人間の「自我」
(+そのもの)なのでしょうか?
それとも、意識と「自我」とは、二つの異なる
ものなのでしょうか?
この質問に対して、仏陀は答える:
あなたが言っているのは、どの「自我」の
事だろうか?
布咤婆楼は、答える:
私が言っているのは、明確な形態で、四大に
よって組成され、米などの食物によって
滋養されて、成長するものです。
仏陀は言う:
もしそうであるならば、あなたの言う意識と
「自我」は異なるものです。
あなたは、必ず知る必要があります。
一如に生起した意識と消滅した意識は、
決して同じものではありません。
そうであれば、あなたが言った意識と
「自我」は、必然的に同じものではない、
ということになります。
というのも、もし、その中の一つを「自我」
と見做せば、もう一つのものは、必然的に、
決して「自我」では、ありえない。
布咤婆楼は言う:
もし私が、「自我」とは、心霊の元素に、
主要な、また二次的な器官とによって組成
されていると、考えたならば?
仏陀は答える:
もしそうであったとしても、意識とあなたの
言う「自我」は、別々の二つの事柄です。
あなたの言う「自我」について討論しても、
意味がない。というのも、生起した意識と
消滅した意識は、同じものではありえない
からです(理由は先に述べた)。
ゆえに、意識と、あなたが言う「自我」は
同じものではないのです。
布咤婆楼は、さらに踏み込んで、
仏陀に問う:
それならば、もし、形象がなく、意識自身
によって形成された「自我」は
どうでしょうか?
仏陀は答える:
そうであったとしても、それらは同じもので
はありません。あなたの言う所の、
意識自体から形成された形象のない
「自我」のことを討論しても、
意味がありません。
というのも、生起した意識と消滅した意識は、
同じものではないからです。
前述したのと同じ理由で、もし、その中の
一つを「自我」とするならば、残りの一つは、
前者と同じではありえず、故に「自我」では
ないのです。
たとえば、今(+見ている所)の水と、
次(+に見る所)の水は異なるものである
(+かどうかを問題にしている)ときに、
水と波は同じものだという(+議論をする)
のは、まったく馬鹿げているからである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>