Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-52

意識と「自我」は同じものか、異なるものか?

布咤婆楼は、仏陀に問う:

意識とは、本当に、一人の人間の「自我」

(+そのもの)なのでしょうか?

それとも、意識と「自我」とは、二つの異なる

ものなのでしょうか?

この質問に対して、仏陀は答える:

あなたが言っているのは、どの「自我」の

事だろうか?

布咤婆楼は、答える:

私が言っているのは、明確な形態で、四大に

よって組成され、米などの食物によって

滋養されて、成長するものです。

仏陀は言う:

もしそうであるならば、あなたの言う意識と

「自我」は異なるものです。

あなたは、必ず知る必要があります。

一如に生起した意識と消滅した意識は、

決して同じものではありません。

そうであれば、あなたが言った意識と

「自我」は、必然的に同じものではない、

ということになります。

というのも、もし、その中の一つを「自我」

と見做せば、もう一つのものは、必然的に、

決して「自我」では、ありえない。

布咤婆楼は言う:

もし私が、「自我」とは、心霊の元素に、

主要な、また二次的な器官とによって組成

されていると、考えたならば?

仏陀は答える:

もしそうであったとしても、意識とあなたの

言う「自我」は、別々の二つの事柄です。

あなたの言う「自我」について討論しても、

意味がない。というのも、生起した意識と

消滅した意識は、同じものではありえない

からです(理由は先に述べた)。

ゆえに、意識と、あなたが言う「自我」は

同じものではないのです。

布咤婆楼は、さらに踏み込んで、

仏陀に問う:

それならば、もし、形象がなく、意識自身

によって形成された「自我」は

どうでしょうか?

仏陀は答える:

そうであったとしても、それらは同じもので

はありません。あなたの言う所の、

意識自体から形成された形象のない

「自我」のことを討論しても、

意味がありません。

というのも、生起した意識と消滅した意識は、

同じものではないからです。

前述したのと同じ理由で、もし、その中の

一つを「自我」とするならば、残りの一つは、

前者と同じではありえず、故に「自我」では

ないのです。

たとえば、今(+見ている所)の水と、

次(+に見る所)の水は異なるものである

(+かどうかを問題にしている)ときに、

水と波は同じものだという(+議論をする)

のは、まったく馬鹿げているからである。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>