仏陀が排斥した「自我」~
我々は、前述のパーリ経典の経文に基づいて、
以下のような結論を得ることができる:
(一)多くの、異なる学説の教師は、「自我」
はあるのだ、と主張している。
そして、人が死ぬと、この種の「自我」は、
安楽になり、なんらのものからの傷害も
受けない、という。
これらの人々は、この種の「自我」と、
「自我」が赴く常楽世界を知っているのか
どうか、または、彼らの修行(+方法)が、
人々に常楽世界に到達できるものであること
を実証できるのか、または、その世界に住む
神が、彼らに、この種の世界の存在を保証し
たのかと問うた時、彼らは正面から回答する
ことはできず、どの質問にも、確実に実証
してみせる、ということもできないでいる。
このように、彼らの観点は、ただの夢想に
過ぎず、ちょうど年若い青年が、存在しない
美しい娘さんを愛しているようなもの、
または、梯子を作って、自分さえどこに
あるのか知らない家に、上ろうとしている
ようなものなのだ。
(二)仏陀は、己自ら、各種の「自我」を捨て
去るように唱え、導く。
人々が:「捨て去るべき『自我』はどこに
あるのか?」と問う時、仏陀は答える:
「それは人々が執着するところにある。」
その時々に、人々が執着するところの「自我」
が何であろうとも、彼らの心の中では、それを
捨て去るべきであることは、非常にはっきり
している~永遠にそれを「自我」だと
見做してはならないのだ(+ということも
知っている)。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>