外道修法最高者の「自我」
微細に残存する「自我(ママ、以下同様)」~
読者の方々は覚えているだろうか?
前述したパーリ経典《布咤婆楼経》の中で、
仏陀が布咤婆楼に言った言葉:
布咤婆楼!
私は人々に、三種類の「自我」を取り除く
よう指導する。すべての、この方法で修習
する人は、皆、煩悩が減り、かつ絶対的に
「清浄なる境地」を成長させる(+ことが
できる)。
あなたは、完全なる智慧を証悟することが
できるし、同時に己自身の智慧を通して
(心霊のレベルが上昇することによる良き)
境地を円満成就することができる。
・・・それは幸福、喜と楽、安寧、正念、
正知と安楽が充満している。(《長部・戒蘊品》
前に述べる「清浄なる境地」は、外道の
修法における最高レベル成就者の執着する
ところとなった。
彼らは三種類のレベルの「自我」を否定する
と同時に、翻ってまた「自我」に執着する。
彼らは、清浄なる境地を獲得すると、それを
涅槃または「自我」であると(+定義)し、
かつ、人々に対して、ソレに依拠せよと
教え導いた。
彼らは更に一歩進んで、仏陀が述べた
「『自我』は『自我』の拠り所である」の
最初の「自我」は、実際は「清浄なる自我」
の事で、苦を受ける「個体(=個人)の自我」
ではない」という。
これは、一般的に言われている所の「清浄なる
自我」はソレ自身を支え助ければならない
という意味である。
混乱を避けるため、また、討論に便利な
ように、筆者は、ここでは、この種の自我観
に、一つの特定の名前を付けたいと思うーー
「外道の修法における最高者の自我」または
簡潔に言って「究極的な自我」。
ソレをこのように呼ぶのは、ソレと、外道
の修法における最高者と、関係があるから
である。
これらの修法者は、「自我」に執着して
おり、それはまるで、アヘンを吸引する
中毒者が、アヘンに執着するのと、似ている。
もう一つ、我々が注意しなければならない
のは、この種の「究極的な自我」は、仏陀
以前の宗教に、すでに教えられ受け入れられ
て久しい学説であり、それは仏陀の観点と
非常に似ていて、かつ近いものだと、いうこと
である。
彼らの説明の仕方は、我々と同じで、人が、
世間に対してか、または住異滅を生起させる
物への執着を取り除いたとき、「真正なる自我
(サンスクリットでは『ātman』」が
出現する。この種の境地における「自我」は
恒常で、恒楽で、非常に清浄で、それは
一人一人に属すが、また同時に宇宙の大我の
一部分でもある(+という)。
それは、ある種の仏教徒が誤った指導を
受けたために執着するようになったモノで、
義と理であると言う。
そうであるから、他の人々にも、このように
実践するよう指導する。こういう状況が存在
するが故に、私はソレを「外道の修法におけ
る最高者の自我」と呼ぶ。
この呼称を使うのは、ソレは、非常に小さな
一糸ほどに残された「自我」であり、ソレは
まるで口から吐き出した煙草の煙の、
ささやかに残る痕跡のようなものである。
これら外道の、修法における最高者は、過去に
おいては、「自我」への執着をきつく握り
しめて手放さない(+という現象がある)が、
しかし、修行した後において、修行の極限まで
到達した時、もしこの種の「自我」に執着しな
いならば、または一歩進んで、この種の
「自我」を取り除いたならば、「自我」の束縛
から(+完全に)解脱することができる。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>