Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー66

外道修法最高者の「自我」

微細に残存する「自我(ママ、以下同様)」~

読者の方々は覚えているだろうか?

前述したパーリ経典《布咤婆楼経》の中で、

仏陀が布咤婆楼に言った言葉:

布咤婆楼!

私は人々に、三種類の「自我」を取り除く

よう指導する。すべての、この方法で修習

する人は、皆、煩悩が減り、かつ絶対的に

「清浄なる境地」を成長させる(+ことが

できる)。

あなたは、完全なる智慧を証悟することが

できるし、同時に己自身の智慧を通して

(心霊のレベルが上昇することによる良き)

境地を円満成就することができる。

・・・それは幸福、喜と楽、安寧、正念、

正知と安楽が充満している。(《長部・戒蘊品》

前に述べる「清浄なる境地」は、外道の

修法における最高レベル成就者の執着する

ところとなった。

彼らは三種類のレベルの「自我」を否定する

同時に、翻ってまた「自我」に執着する。

彼らは、清浄なる境地を獲得すると、それを

槃または「自我」であると(+定義)し、

かつ、人々に対して、ソレに依拠せよと

教え導いた。

彼らは更に一歩進んで、仏陀が述べた

「『自我』は『自我』の拠り所である」の

最初の「自我」は、実際は「清浄なる自我」

の事で、苦を受ける「個体(=個人)の自我」

ではない」という。

これは、一般的に言われている所の「清浄なる

自我」はソレ自身を支え助ければならない

いう意味である。

混乱を避けるため、また、討論に便利な

ように、筆者は、ここでは、この種の自我観

に、一つの特定の名前を付けたいと思うーー

「外道の修法における最高者の自我」または

簡潔に言って「究極的な自我」。

レをこのように呼ぶのは、ソレと、外道

修法における最高者と、関係があるから

である。

これらの修法者は、「自我」に執着して

おり、それはまるで、アヘンを吸引する

中毒者が、アヘンに執着するのと、似ている。

もう一つ、我々が注意しなければならない

のは、この種の「究極的な自我」は、仏陀

前の宗教に、すでに教えられ受け入れられ

久しい学説であり、それは仏陀の観点と

非常に似ていて、かつ近いものだと、いうこと

である。

彼らの説明の仕方は、我々と同じで、人が、

世間に対してか、または住異滅を生起させる

への執着を取り除いたとき、「真正なる自我

サンスクリットでは『ātman』」が

出現する。この種の境地における「自我」は

恒常で、恒楽で、非常に清浄で、それは

一人一人に属すが、また同時に宇宙の大我の

一部分でもある(+という)。

それは、ある種の仏教徒が誤った指導を

受けたために執着するようになったモノで、

これらの仏教徒は、これこそが仏陀の教えた

と理であると言う。

うであるから、他の人々にも、このように

実践するよう指導する。こういう状況が存在

するが故に、私はソレを「外道の修法におけ

最高者の自我」と呼ぶ。

この呼称を使うのは、ソレは、非常に小さな

一糸ほどに残された「自我」であり、ソレは

まるで口から吐き出した煙草の煙の、

ささやかに残る痕跡のようなものである。

これら外道の、修法における最高者は、過去に

おいては、「自我」への執着をきつく握り

しめて手放さない(+という現象がある)が、

しかし、修行した後において、修行の極限まで

到達した時、しこの種の「自我」に執着しな

ならば、または一歩進んで、この種の

「自我」をり除いたならば、「自我」の束縛

から(+完全に)解脱することができる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>