Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-68

仏法には残存する「自我」はない~

あなたは、仏教の文献の中に「外道修法最高者

の自我」を見つけることはできないだろう。

というのも、仏陀は、それについて語ったこと

がないから。しかし、ある時期に、ある種の愚か

な人々が、それを仏陀の教法だと誤解して

しまい、かつ、この種の学説を「自我」を偏愛

する人に伝授してしまった。

これらの人々は、簡単にこの種の観点を受け入

れた。というのも、一般の人々は、非常に容易

に自然に、「自我」があるという観点を認める

傾向があるからであるが故に。

このような傷害・損ないは、しかるべきして

発生する。

というのも、それらの人々は適切な修学を

していないし、宗教的な学術的訓練も受けて

いないからである。

彼らは、己の説は、己自ら体験した智慧で

あり、経典学者が記憶している知識ではない

宣揚し、また、これらの学者が内観

法門(vipassanā)を修習したことが

あったとしても、彼らは学生に、学者を

信用してはならないと教える。

簡潔に言えば、この種の「自我観」は、仏教

内においても発生するもので、これはある種の

人士に十分な知識を欠いていて、仏法に対して

理解が徹底しておらず、また、(+己の自我観

を宣揚するのは)仏教のレベルを引き下げて、

自己の方便とするか、または自己の欲望に

合わせるかするためであり、自己の強烈な

「自我」の傾向に基づき、憶測で説法をする

のである。

彼らがこのような行動に出る原因は、これらの

説法によって、本能的に「自我」を充満させて

いる俗世の衆生に迎合するためであって、

これらの教師と信徒は、とどまることを知らぬ

げに、盲目的に、仏法を、彼らの「自我」の

レベルに引きずり落としている訳であって、

彼らは全員、厳重な「仏法に対する非明確者」

だと言える。

以上は、仏教圏内においても、異なる観点の

成員がいる、という説明である。

仏教徒の中、《奥義書》を学ぶ教派の中で

は、彼らには彼ら自身の哲学があり、

かつ、早く仏陀の前からすでにこの種の

「究極的な自我」の観点を持っていたことは

確実である。

「究極的な自我」は彼らの教法の内の最も

重要な一部分であって、彼らの修学の方式は

「何が『真正なる自我』か」を、問うことで

ある。

これは、仏教徒が「何が苦痛を取り除ける

ことができるか」を探求するのとは、同じで

はない。

仏陀の後、関連するインド哲学は、さらなる

発展と変革を遂げた。たとえば、ヴェーダンタ

哲学は、シャンカーラチャーリヤ(=シャン

カラ)の時代にすでに改善され、新しい観点を

獲得した。がしかし、「自我」をその目標と

していることには、以前と変わりがない。

これは、彼らの哲学の根本がこのようなもので

あるからであり、彼らの探求精神もこのような

ものであり、故にこのようなレベルで満足して

いるのであり、既有のレベルを乗り越えること

ができないでいる。

このことから、世界には多くの異なる哲学が生

じることとなった。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>