《バガヴァット・ギーター》の中の「自我」~
インド哲学の中の、この種の「究極的な自我」
の観念は、《バガヴァット・ギーター》という
経典の中に、容易に見つけ出すことができる
し、また、最も人々に知れらてもいる。
《バガヴァット・ギーター》の中の「自我」
は、最高の境地を主張しない宗派以外、
それはほぼ、完全にインド哲学の重要な宗派
(+のもの)と同じである(注意して
頂きたいのは、ある種のインド教(=ヒンズ
ー教、以下同様)の宗派は、「究極的な自我」
を主張しない。ややこしいのは、我々は、
これらの異なる宗派も、「インド教」と
呼びならわしていることである)。
ここで言う所の「自我」は、不生不滅、永恒
不変なもので、また誰かが創造したものでも
ない。
彼らは、人々に肉体、心霊及びすべての俗世的
な事物を放棄した後、この境地を「自我」
として執取せよ、と教え導く。
この観念は、人々を頗る鼓舞し、または人々を
激励することができる。
というのも、彼らが執取する所の新しい
「自我」は、古い「自我」よりさらに価値が
あり、真実味があり、また(人から聞いた
所では、ヒトラーの)兵士たちにも有効で
あった。
本書は、非常にはっきりと、「自我」または
「真正なる自我」とは何かを解説しており、
私は、我々の言語で解説するよりは、
(+その内実を)更に明確化できると思い、
その中のいくつかの章を採録して、
検討したいと思う。
ただし、もし採録するには文章が長すぎる
時、そして、注釈が必要な時、私は注釈を
加えたいと思う;
特に重要だと思える教理については、興味の
ある読者の方々に、更に深く検討していただ
けるよう、私は元々のサンスクリットも
紹介したいと考える。
以下は、《バガヴァット・ギーター》の中
で、「自我」の特徴を説明する、いくつか
の詩文である。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
★誤字脱字を発見された方は、当コメント欄
にてご一報頂くか、または<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>