涅槃は「法」であって、「自我」ではない~
読者の方々は、以下の事をしっかりと理解して
頂きたい。
ここ(No73)で言う所の「真正なる自我」は、
決して心霊(ママ、以下同様)等ではない。というの
も、心霊には、依然として生と滅があるので
あるが故に。
適切な名詞がないために、私は仕方なく、
元の経典と同じく、ソレを「自我」と
呼ぶ。
ある種の法師は、無為法の境地・境界(または
元素)は、有為法の境地・境界(または元素)
の核心である、と言う。
言い換えれば、有為法の生・住・異・滅は、
無為法の核心的要素に依っているのであり、
彼らは、この無為法を「真正なる自我」
または「涅槃」と称しており、かつ、
我々に、この種の「自我」を追求するように
教え、導くのである。
そして、この種の「自我」は、すべての煩悩を
取り除いたか、または世俗の事物を放棄した後
に出現するもので、彼らはこれを確固として、
仏法である、と言っている。
この種の言い方が、もし、擬人化したもの、
または通俗的な言語で表現したものでない
ならば、仏陀の法語に対して、重大な誤解が
含まれているものである。
観点とは違って、人々に「自我」を追及する
よう導くことはないし、人に「自我」に執着
するよう指導することもないし、「真正なる
自我」を拠り所にするよう、教えることも
ない。
反対に、仏陀は人々に、心霊が解脱して、
どのような種類の「自我」にも執着しな
くなるよう、各種の我執を完全に放棄する
よう教え、導いた。
仏陀の言った「『自我』は『自我』の拠り所」
という言葉は、ある種の人々は、前の
「自我」は、後ろの「自我」の拠り所で、
ソレは「自我」または涅槃であると理解し、
かつ、後ろの「自我」は、一般の人々が
執着するところの「自我」なのであると、
解説している;
この種の理解は、まさに仏陀の本意から遠く
離れるものであって、(+この種の観点は)
その他の宗教によって、吸収されたのである。
実際、「真正なる自我」または「涅槃」を
拠り所とする観念は、インド教と同じであり、
この事は、以下の詩文の中から見出すことが
できる。
(十二)一人の人間は、「大我」に依って
「自我」を昇華させるが、「自我」を
悲しませてはならない。というのも、
「大我」は(小我または一般の「自我」の)
真正なる友であるから。しかし、「大我」も
また敵になることもある。
(第六章、第5詩節)
(十三)一人の人間が「大我」に従う時、
「大我」は彼の友となる;しかし、人が
いまだ「大我」に征服されていない時、
「大我」は彼の敵となる。
(第六章、第6詩節)
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>