Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー74

涅槃は「法」であって、「自我」ではない~

読者の方々は、以下の事をしっかりと理解して

頂きたい。

ここ(No73)で言う所の「真正なる自我」は、

決して心霊(ママ、以下同様)等ではない。というの

も、心霊には、依然として生と滅があるので

あるが故に。

適切な名詞がないために、私は仕方なく、

元の経典と同じく、ソレを「自我」と

呼ぶ。

ある種の法師は、無為法の境地・境界(または

元素)は、有為法の境地・境界(または元素)

の核心である、と言う。

言い換えれば、有為法の生・住・異・滅は、

無為法の核心的要素に依っているのであり、

彼らは、この無為法を「真正なる自我」

または「涅槃」と称しており、かつ、

我々に、この種の「自我」を追求するように

教え、導くのである。

そして、この種の「自我」は、すべての煩悩を

取り除いたか、または世俗の事物を放棄した後

に出現するもので、彼らはこれを確固として、

仏法である、と言っている。

この種の言い方が、もし、擬人化したもの、

または通俗的な言語で表現したものでない

ならば、仏陀の法語に対して、重大な誤解が

含まれているものである。

仏陀の教義は、インド教(=ヒンズー教)の

観点とは違って、人々に「自我」を追及する

よう導くことはないし、人に「自我」に執着

するよう指導することもないし、「真正なる

自我」を拠り所にするよう、教えることも

ない。

反対に、仏陀は人々に、心霊が解脱して、

どのような種類の「自我」にも執着しな

なるよう、各種の我執を完全に放棄する

よう教え、導いた。

仏陀の言った「『自我』は『自我』の拠り所」

という言葉は、ある種の人々は、前の

「自我」は、後ろの「自我」の拠り所で、

ソレは「自我」または涅槃であると理解し、

かつ、後ろの「自我」は、一般の人々が

執着するところの「自我」なのであると、

解説している;

この種の理解は、まさに仏陀の本意から遠く

離れるものであって、(+この種の観点は)

その他の宗教によって、吸収されたのである。

実際、「真正なる自我」または「涅槃」を

拠り所とする観念は、インド教と同じであり、

この事は、以下の詩文の中から見出すことが

できる。

(十二)一人の人間は、「大我」に依って

「自我」を昇華させるが、「自我」を

悲しませてはならない。というのも、

「大我」は(小我または一般の「自我」の)

真正なる友であるから。しかし、「大我」も

また敵になることもある。

(第六章、第5詩節)

(十三)一人の人間が「大我」に従う時、

「大我」は彼の友となる;しかし、人が

いまだ「大我」に征服されていない時、

「大我」は彼の敵となる。

(第六章、第6詩節)

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>