Sayalay's Dhamma book

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ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-76★

仏教と《バガヴァット・ギーター》の違い~

次に、私は再び《バガヴァット・ギーター》の

中から、いくつかの詩節を引用して、それらが

指し示す教法は、ほぼ区別ができない程、仏教

と非常によく似ており、両者は共に、相似て

いる本質を有している事、唯一の差異は、

その中の一つには「自我」があり、もう一つの

中には「自我」がないということ(+を説明し

たいと思う)。

(十四)虚偽なる者は、真実には存在しない

(訳者注)。真実なる者は、永遠に存在する。

両者における真理は、ただ、すべての事物を

見通すことのできる真正なる「自我」によって

のみ、知られることができる。

(第二章、第16詩節)

(十五)この粗い肉体の「自我」は、永遠に、

行為の影響から離脱することができない。

すでに行為、行動の中から解脱したソレ

(自我)は、正確・適切に「すでに真正なる

脱をした人」と呼ばれるべきである。

(十六)いまだ行為を手放していない人につい

て言えば、善と悪、そして、善悪の果報を

兼ねて具備することは、彼らの行為の果報で

あるが、すでに解脱した人について言えば、

すなわち、後有を受けないのである。

(第十八章、第12詩節)

(十七)すでに解脱した人は、清浄と智慧に

あふれており、かつ、全く懐疑というものが

ない。「彼」は、端正なる行為に対して、

怒るということはないが、端正でない行為を

行う事は、決してない。

(第十八章、第10詩節)

(十八)(+その人の)心智はいかなる事物

にも執着せず、自己を調伏する。その上、

完全貪愛を取り除いた人は、執着を

断っているが故に、すべての束縛から完全に

解脱している所の、最高の境地に到達して

いる。(第十八章、第49詩節)

(十九)おお!あなた!昆帝(Kunti)家族の

構成員、すでに、最高の境地に到達した人が、

如何にして永恒を持することができるのかと

いうことを、私の所から(+その知識を)

知り得るが、これこそが、最高レベルの知識

なのである。(第十八章、第50詩節)

(二十)自己を浄化できる智慧を追い求め、

不断に自己を正し戒め、音とその他の器官の

外塵を捨て去り、かつ、愛と恨を、滅し、

除け。(第十八章、第51詩節)

(二一)寂静なる場所において、沈静を保持

、少欲知足であり、身・口・意を調伏し、

常に禅の修習をし、かつ、煩悩のない人を

拠り所とせよ。(第十八章、第52詩節)

(+ )(= )訳者。(つづく)

訳者注:虚偽なる者は真実なる存在では

ありえない、とも訳せる

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>