(二二)利己的(+な心)、自己中心的
(+な心)、偽善、欲望、憤怒と貪婪を取り
除き、利己的でない、平和な人になる。
この種の境地に到達した人は、永恒者になる
条件が整ったのだ、と言える。
(第十八章、第53詩節)
(二三)永恒者になり、かつ「大我」の中に
おいて喜悦を感じる人は、永遠に愁いがなく、
二度と何かを追い求めるということもなく、
彼は万物と一体化・合一する。そして、
「自我」に誠心誠意忠実である人、
と見做される。(第十八章、第54詩節)
(二四)一人の人間が、忠誠をもって尽せば、
その結果「私とは誰か、私とは何か」を正確に
理解する(+ということが起こる)。
一人の人間が、そのように正確で誤りなく、
本質に立った「自我」を認識したならば、
その時即刻、最高の境地に到達することが
できる。(第十八章、第55詩節)
これらの詩節から、我々は、それらが如何に
仏教と酷似していて、かつ、同様の教理で満
たされていて、唯一異なるところは、それら
には「自我」(または「真正なる自我」とも
言う)、すなわち永遠の後ろ盾があることだ、
ということが見てとれる;
しかしながら、仏教は「自我」を完全に取り
除いて、ただ「法」ーーその上、この変化
する「法」は、自然に変化してしまう
ものでーーのみを残すべきであると
考えている。
上記の内容を検討する事は、主題と関係が
ないように見えるかもしれないが、しかし、
実際は、それは我々に、インド教
れほど似通っているかを知らせてくれる
が故に、(+これを比較検討することは)
実は非常に重要なことなのである。
当然ながら、我々は、この相似ている二種類の
観点の間において、異なるのは「自我」に
ついてであり、インド教の目標は、「自我」の
追及にあり、彼らが「自我」を手に入れた
とき、それが解脱であり、それを幸福である
と見做し、智慧または心霊が「自我」を証悟
した時、それはすなわち、幸福なる境地なの
である、と彼らが言うのを、知っている必要
がある。
このことは、次に引用する最後の二首の詩節
の中に、はっきりと見て取ることができる。
(二五)一人の人間が、すでにすべての欲望を
捨て去り、かつ「自我」の影響を受けて満足
する時、彼は、安定した心を擁するのだ、
と言える。(第二章、第55詩節)
(二六)風に吹かれないような場所に置かれた
蝋燭の光が、揺れ動かないように、一人の、
すでに心性を調伏した行者は、その訓練された
心霊によって静かに座り、「自我」を目標に
した瑜珈(=ヨーガ、ヨガ)を楽しく修練する
時もまた、動揺することがない。
(第六章、第19詩節)
我々は、最後の一首の詩節から、彼らの瑜珈
または禅の修習の目的は、「自我」を証悟する
こと、また成功裏に「自我」を見つけることを
終点としていることが分かる。
そして、その後には、彼らは楽しげに、涅槃
とは「自我」のことであると認め、ソレが
すなわち、「真正の自我」であることを
発見すること、または「真正の自我」を
探し求めることに満足し、それをもって、
彼らが以前、間違って導かれ、執着していた
所の虚偽の「自我」と取り換える、という訳
である。
ある種の仏教徒は、涅槃は「真正の自我」
であると執着するが、これはインド教と
同じで、彼らは、何かのモノを涅槃と見做
したいと執着するのである;
実際は、「自我」の思いが(+少しでも)存在
すれば、真正なる涅槃は出現することはなく、
涅槃が本当に顕現した時、「自我」の感覚は、
その時即刻、消失するのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>