ジャイナ教(=ジナ教)の「自我」
ジャイナ教は「自我」即ち涅槃であると
主張する~
次に我々は、ジャイナ教(また「尼乾子の
教義」とも言う)の教理を研究して、それと
仏教の教義がどれほど似ているかを
見てみたいと思う。
並立し、大雄(mahāvīra)(また「尼乾陀
子若提子」Nigaṇthanāṭaputtaとも言う)が、
彼らの教主である。
彼が説法した時間は長くはないが、しかし、
彼の教法は、後になって、大量に演繹されて、
それは、浅くて明確で分かり易い教義に
なった。しかし、その本旨は、依然として
変わることがない。
簡単に言えば、「自我」を目標にして探し
求めるもので、その例えとして、彼の、
以下のような詩がある:
すべての内観を修習する人は、
その中に「自我」を発見する;
そして、有漏が完全に消失した後、
「自我」の目標に到達することができる。
(第218章、《真実集》Sārasamuccaya
より採録)
ジャイナ教でも、涅槃という言葉を使う
けれども、彼らはサンスクリットの
涅槃(nirvāṇa)を用いている。
関連する資料を見ると、彼らは涅槃と「自我」
は、完全に同じものであると考えていること
が、はっきりと見て取れる。
それは、以下の詩文にも表れている:
善逝者とは、すでに最高の涅槃に
到達した人である、
涅槃は、あらゆる邪悪な境地を解脱
したのであり、
「自我」の自然な特性でもある。
この詩文によって、我々は、彼らが涅槃を
「自我」だと見做していて、また、涅槃とは、
苦痛と、すべての邪悪な事物から解脱した境地
であると言い、また、ちょうど湿り気が水の
特性であるかのように、この「自我」は自然
なる特性である、と言っていることが、
分かる。
簡単に言えば、彼らは、涅槃に到達することは
すなわち、「自我」を完成させることで、
「自我」を完成させることはまた、涅槃を
証悟することなのだ、そして、これこそが
真正なる「自我」などだ、と言うのである。
我々は、更に以下の事を、発見することが
できる。
彼らの「業」と涅槃の概念は、仏教のそれと
極めて酷似していることを。
彼らの教義の中では、「自我」が出現した時、
業の影響力は消失する、という。
これはちょうど、仏教で、一人の人が涅槃
または最高の境地に到達した時、古い業の
影響力は消失し、二度と再び新しい業を
造らない、と言っているのと同じである。
ジャイナ教の経典の中一つに、庫那達庫那達
した《真実集義》(Samayasāra)、第198
詩節の中に、こういうことが書かれている;
貪・瞋・痴、これらは皆、業を
造る煩悩である、
それらは、正見を持つ者の上には
発生しない;
故に、業力は、「自我」を証悟した
人に、重大な苦痛を齎すことはない、
というのも、彼らにはすでに煩悩が
取り払われているから。
また、現代のジャイナ教の大師布拉馬恰里・
錫塔拉・普拉沙達(Brahmācarī Sītāla
Prāsada)は言う:
ジャイナ教の言い方に基づくと、涅槃とは
「自我」が業力の影響から解脱したことで
あり、業を造るという知覚から解脱した
ときに、到達することのできる境地または
特質である。
この境地は、粗い身体であろうと、微細な
身体であろうと、各種の形体の中から抜け
出しており、ソレはすべての世俗的な苦痛
の止息する場所であり、ソレは幸福、平和
と光明にあふれ、永恒であり、二度と
再び破壊されることはない。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
訳者コメント:日本でもジャイナ教徒が
います、日本人で熱心に修行されている方が。
興味のある方はインターネットで探してみて
ください。本は「勝利者の瞑想法」が
出ています。
★誤字脱字を発見された方は、当コメント欄
にてご一報頂くか、または<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>