Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー78★

ジャイナ教(=ジナ教)の「自我」

ジャイナ教は「自我」即ち涅槃であると

主張する~

次に我々は、ジャイナ教(また「尼乾子の

教義」とも言う)の教理を研究して、それと

仏教の教義がどれほど似ているかを

見てみたいと思う。

仏陀の時代の始めから、この教派は、仏教

並立し、大雄(mahāvīra)(また「尼乾陀

子若提子」Nigaṇthanāṭaputtaとも言う)が、

彼らの教主である。

彼が説法した時間は長くはないが、しかし、

彼の教法は、後になって、大量に演繹されて、

それは、浅くて明確で分かり易い教義に

なった。しかし、その本旨は、依然として

変わることがない。

簡単に言えば、「自我」を目標にして探し

求めるもので、その例えとして、彼の、

以下のような詩がある:

 

すべての内観を修習する人は、

その中に「自我」を発見する;

そして、有漏が完全に消失した後、

「自我」の目標に到達することができる。

(第218章、《真実集》Sārasamuccaya

より採録

 

ジャイナ教でも、涅槃という言葉を使う

けれども、彼らはサンスクリット

涅槃(nirvāṇa)を用いている。

関連する資料を見ると、彼らは涅槃と「自我」

は、完全に同じものであると考えていること

が、はっきりと見て取れる。

それは、以下の詩文にも表れている:

 

善逝者とは、すでに最高の涅槃に

到達した人である、

涅槃は、あらゆる邪悪な境地を解脱

したのであり、

「自我」の自然な特性でもある。

(Āpata Suvarūpa より採録

 

この詩文によって、我々は、彼らが涅槃を

「自我」だと見做していて、また、涅槃とは、

苦痛と、すべての邪悪な事物から解脱した境地

であると言い、また、ちょうど湿り気が水の

特性であるかのように、この「自我」は自然

なる特性である、と言っていることが、

分かる。

簡単に言えば、彼らは、涅槃に到達することは

すなわち、「自我」を完成させることで、

「自我」を完成させることはまた、涅槃を

証悟することなのだ、そして、これこそが

真正なる「自我」などだ、と言うのである。

我々は、更に以下の事を、発見することが

できる。

彼らの「業」と涅槃の概念は、仏教のそれと

極めて酷似していることを。

彼らの教義の中では、「自我」が出現した時、

業の影響力は消失する、という。

これはちょうど、仏教で、一人の人が涅槃

または最高の境地に到達した時、古い業の

影響力は消失し、二度と再び新しい業を

造らない、と言っているのと同じである。

ジャイナ教の経典の中一つに、庫那達庫那達

阿闍梨(kunadakunadā-cāriya)が作成

した《真実集義》(Samayasāra)、第198

詩節の中に、こういうことが書かれている;

貪・瞋・痴、これらは皆、業を

造る煩悩である、

それらは、正見を持つ者の上には

発生しない;

故に、業力は、「自我」を証悟した

人に、重大な苦痛を齎すことはない、

というのも、彼らにはすでに煩悩が

取り払われているから。

 

また、現代のジャイナ教の大師布拉馬恰里・

錫塔拉・普拉沙達(Brahmācarī Sītāla 

Prāsada)は言う:

ジャイナ教の言い方に基づくと、涅槃とは

「自我」が業力の影響から解脱したことで

あり、業を造るという知覚から解脱した

ときに、到達することのできる境地または

質である。

この境地は、粗い身体であろうと、微細な

身体であろうと、各種の形体の中から抜け

出しており、ソレはすべての世俗的な苦痛

止息する場所であり、ソレは幸福、平和

光明にあふれ、永恒であり、二度と

再び破壊されることはない。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

訳者コメント:日本でもジャイナ教徒が

います、日本人で熱心に修行されている方が。

興味のある方はインターネットで探してみて

ください。本は「勝利者の瞑想法」が

出ています。

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>