総論:仏法と各種の観点の比較
我執があるとき、重荷、苦痛がある~
上帝(=神)に関する観点または教義を主張
する(+人々の)その目的は、彼らの信徒を屈
服・仕えさせ、かつ、それに対して疑問を
持たずに規則を守らせることにある。
ゆえに、これらの観点は威圧性のあるもので、
独立的な考えと行為を許さない。
一切の事柄は、完全に上帝に依存する。
この種の観点は、低いレベルの「自我」の教義
と見做され、大多数の、教育を受けていない
野蛮人、または限定的に、子供向け、または
幼稚な者に向けた教義である。
人々は成長した後、この種の束縛から抜け出
して、自己の「自我」を主張し、己の力で事を
なし、自分のために事をなして、上帝のために
何かをすることはなくなるし、子供のレベルに
合わせた上帝(+の観念)に依存するという
こともなくなる。
彼らは、業力または善悪の応報を信じ、彼ら
自身が嫌でさえなければ、何回も輪廻するかも
知れない。彼らは、生命における制限を受け
ながら行う行為の後に(+因果の)応報を
受け取るが、上帝の専制ーー上帝が彼らの
唯一の今生を賜与し、生きている間の行為を
記録して、後日の審判に備えるーーを受ける
ことはない。
この種の個人的「自我」信仰を信じるのは、
上帝を信じるよりはレベルが上であり、比較的
独立性がある。この種の信仰を持つ人は、
次には、善業をなすか、または、己を極度に浄
化することを通して、至高の安楽と、永久不変
の「自我」を獲得することができる。
我々は、東方の哲学においても、西洋の哲学に
おいても、この種の意義における「自我」は
皆、同質であることが分かる。
しかし、第二レベルの「自我」ーー
人は己自身で「自我」を持っており、それは
上帝に属する「自我」ではないーーという事
ではあっても、それでもって、究極的な独立
を果たしたわけではない。
というのも、人は依然として、「自我」に
監禁されており、この牢獄は、自己中心的、
自我の膨張、自己陶酔と自己憐憫に満ちて
いて、かつ、知らず知らずの内にうぬぼれ・
自己満足、自己愛(=ナルシシズム)と
自己崇拝(=俺様意識)の炎で己自身を焼
き尽くしているのである。
そうであるから、仏教の観点から言えば、
この種のレベルの「自我」が、苦痛の終点
である、とは認めない。
我々は、以下の比喩を見てみよう思う:
ある人が森の中に入り、木の上に木の実が
成っているのを見つけた。彼はこの新鮮な、
おいしそうな果物を見つけて大いに興奮し、
すぐにそれを摘み始め、彼のバッグに満杯に
なるまで詰めて、それを肩に担ぎ上げた。
最初、彼はとりたてて重いとは感じなかった
が、一時間ほど歩いた後、彼はだんだん愉快
でなくなり、疲れてもきて、重さを感じるよう
になった。それで、彼は、比較的出来の
よくない果物を捨て去り、良い物だけを残し、
最後には、最もよい果物だけを、取り分けた。
暫くして、彼は、たったこれだけの果物でも
やはり重いと感じる様になり、彼は一部分を
食べてしまい、一部分を捨てて、手元に何も残
らないようした。
それでも疲れを感じた彼は、気が重く疲れて
いたので、横になって休むことにした。
暫く経って、彼はある所に金塊の山がある事
を発見し、その金塊を拾いに行った。彼は
金塊を肩に背負い、急いで家に帰ろうとした。
彼が背負った金塊の重さは、先ほどの果物より
さらに重かったものの、どこから彼の気力が
来るのかわからない(+が、彼は、それを
担いで歩くことはできた)。しかし、暫くし
て彼は、耐え難いほどの思い負担を感じて、
いくつかの金塊を捨てるか、沿道に隠すか
して、最後には、ただただ疲れ果てた彼に
でも、もてるだけの少しばかりの金塊だけ
を残した。
しかし、暫くすると、彼はまた、金塊よりも
更に貴重な宝物を発見したので、彼はこの
宝物を拾いあげたが、その重さは、先ほどの
金塊よりもなお、重かった。
それを運ぶ彼の気力がどこから来るのか、
我々は知らないけれども(+彼はまたそれを
運んだのだが)、結局、彼はその宝物の内の
いくつかを捨てないわけにはいかなった。
というのも、彼は思いがけず宝物を手に
したために、興奮してあちらこちら走り
まわったので、ますます疲れてしまい、
彼は結局、一つまた一つと、宝物を投げ捨て、
全部を投げ捨てたとき、彼は、二度と再び
重荷を背負う事はないし、心臓も動悸が早く
成る事もないので、ようやく自分が愉快で
あることを感じた。
最後のダイヤモンドを捨てたとき、彼は
リラックスして呼吸し、気持ちは爽やかに
なった。
例え、このダイヤモンドが瑕疵のない、完璧な
ものであり、重量も軽く、持とうと思えば持て
なくもないものであったとしても、
彼は、最後には、それを捨てた。
というのも、それは、身体的な負担にはなら
ないけれども、心霊を圧迫するから、
である。
実際は、一粒の完璧なダイヤモンドを携帯
するか、保存しても、彼にとって、何等の
困難はないし、特に緊張する事はないし、
このダイヤモンドを身に着けても、重量を
感じることもなかったけれども、彼が耐え
難かったのは、それが彼の心を「圧迫」する
事であった。
ゆえに、彼は最後の一粒のダイヤモンドさえ
も、捨ててしまったのである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
訳者コメント:何かを握りしめていると、
人生、碌なことはない(笑)。
私は台湾の寺院で見た「回頭是岸」
(振り返れば彼岸)という句が好きですね。
あなたはあなたが出て来た所、0ポイント
へ戻るだけでいい。仏法だって、握りしめ
たらアウトでしょ。
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>