名色を観照した後、あなたは更に一歩進んで、
縁起の修行をする(+必要がある)。
縁起とは、集諦の事である。
あなたは過去の一組の因が、現在の果を造る
ことを見ることができる。過去の因は、ただの
名色にすぎず、現在の果も、ただの名色に
過ぎない。ゆえに、名色が名色を造っている
に過ぎないのである(+ことが分かる)。
過去の因が生滅する時、それらは:
「我々の生起を利用して、こうこうこういう
果報を生起させよう」とは考えない。
現在の果も:「これこれ、こういう因が
生起するならば、我々も生起しよう」などと
は考えない。
因と果は、ただ、固定的な自然の法則に従って
生滅するだけであって、因は、何らかの努力を
なして果を生起させる、等ということはなく;
因が発生した後、果もまた、何等の努力も
なしに、生起する。
因と縁の条件が整ったとき、因の発生が、
果の生起を誘引する。因は無常であり、苦で
あり、無我であり;果もまた無常であり、苦で
あり、無我である。
過去において、我(=私)はいなかったし、
現在においても、我(=私)はない。
ゆえに無我の法則と、生死輪廻の両者は、
特に矛盾するということは、ない。
あなたが縁起の修行をするとき、必ず、過去
から未来における、名色の相続流を観照
しなければならない。もし、あなたがこの
ように、正確に修行をすることができた
ならば、暫定的にではあるが、断見
(ucceda-diṭṭthi)を取り除くことができる。
あなたは、すべての名色が、その場で生起し、
その場で滅尽するのを照見できるほどに
修行を積まなければならない。
もしあなたが、正確に修行ができたならば、
暫定的にではあるが、常見(sassata-diṭṭhi)
を取り除くことができる。
あなたは必ず、すべての名色は、それら自身の
因と縁で造られているのを、照見する必要が
ある。
もしあなたが、このように、正確に修行する
ことができたならば、暫定的にではあるが、
無因見(ahetuka-diṭṭhi)を取り除くことが
できる。
あなたは、必ず、諸々の因と縁は、それら
おのおのの果報を生じさせるのだ、
ということを照見できるようにならなければ
ならない。
若しあなたが、このように正確に修行する
ことができるならば、暫定的にではあるが、
無作用見(akiriya-diṭṭhi)を取り除くことが
できる。
このように、この種の縁起の正見は、我々の
過去、現在、未来の三世への疑問を取り除ける
だけでなく、種々の邪見も取り除くことが
できる。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(問1-3、つづく)
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>