Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「修心与神通」(翻訳文)-4

3、初心者が定を修習する時、正法は

どのように求めるか?

通常、初心者は、定の修習に関して、皆、非常

に興味を持ち、何か聞いたり、何か匂ったり

すると、急いで座って足を組んだりする。

これは非常に喜ばしい現象ではあるが、

しかし、その方法が正しいかどうか(+よく

検討してみなければならない)、そうで

なければ、彼は彼、あなたはあなた、異なる

種性によって、それぞれに異なる境地が

あるため、無量の種性がいるならば、無尽の

異なる境地があるのである。

もし、あなたが聞いたり、聞いたりした境地に

執着するならば、それは却って、あなたに

困惑を齎し、自分で自分を縛ってしまうこと

になる。

では、如何にして正しい道を歩くのか?

「作意」する必要がある。

たとえば、「阿弥陀仏」を念じることは、我々

の意が作りだしたものである。この意は、

ただ単に意識のことを指しているだけでは

なく、意識に雑念がなくても、「三際托空」

先ほど空じた境地は、作意によって作り

出されたものであり、この空なる境地は、

永遠に存在する事はできない。

暫くすると、身体に気の動きを感じるが、

これは「想」である;

故に「五遍行」はすべて具備されており、

真空を談ずるには、まだまだ早いのである。

作意の目的は、主に、二つの癖を直すことで

ある。

一つは生理的な感覚(たとえば、触、受など)

を克服するもので、もう一つは心理的な知覚

(たとえば、想、思)を調伏するものである。

このようにして、初めて、清浄で意識的なる

境地に到達することができる。

たとえば、禅宗の参話頭、密教の呪文、

浄土宗の阿弥陀念仏などなどは、皆このこと

(+を目指している)のである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

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<陳居士「修心与神通」中国語→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>