3、初心者が定を修習する時、正法は
どのように求めるか?
通常、初心者は、定の修習に関して、皆、非常
に興味を持ち、何か聞いたり、何か匂ったり
すると、急いで座って足を組んだりする。
これは非常に喜ばしい現象ではあるが、
しかし、その方法が正しいかどうか(+よく
検討してみなければならない)、そうで
なければ、彼は彼、あなたはあなた、異なる
種性によって、それぞれに異なる境地が
あるため、無量の種性がいるならば、無尽の
異なる境地があるのである。
もし、あなたが聞いたり、聞いたりした境地に
執着するならば、それは却って、あなたに
困惑を齎し、自分で自分を縛ってしまうこと
になる。
では、如何にして正しい道を歩くのか?
「作意」する必要がある。
たとえば、「阿弥陀仏」を念じることは、我々
の意が作りだしたものである。この意は、
ただ単に意識のことを指しているだけでは
なく、意識に雑念がなくても、「三際托空」、
先ほど空じた境地は、作意によって作り
出されたものであり、この空なる境地は、
永遠に存在する事はできない。
暫くすると、身体に気の動きを感じるが、
これは「想」である;
故に「五遍行」はすべて具備されており、
真空を談ずるには、まだまだ早いのである。
作意の目的は、主に、二つの癖を直すことで
ある。
一つは生理的な感覚(たとえば、触、受など)
を克服するもので、もう一つは心理的な知覚
(たとえば、想、思)を調伏するものである。
このようにして、初めて、清浄で意識的なる
境地に到達することができる。
浄土宗の阿弥陀念仏などなどは、皆このこと
(+を目指している)のである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
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<陳居士「修心与神通」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>