問1-6:《大空経》の中に、以下のような開示
があります。比丘は、群衆から遠く離れて、
静寂な場所に一人でいた方が、比較的容易に
道業が成就する、と。
そうであるなら、大勢で共修(=瞑想会、
リトリート等の事)するのは、余り進歩しない
のでしょうか?また、比丘尼は、集団から
離れて一人で修行するのは適切でしょうか?
答1-6:三種類の独居がある。
すなわち:身独居(kāya-viveka)、心独居(citta-viveka)と寂静独居(upadhi-viveka)
である。
もしあなたが、世俗の生活を捨離し、一人で
隠居するならば、あなたは身独居を実践して
いると言える;
しかし、あなたの心が依然として、世俗の生活
と感官の感受を貪り、執着しているならば、
それは真正なる独居生活ではない。
というのも、あなたには心独居が具備されて
いないからで、あなたの身独居は、形式を糊塗
しているに過ぎない。
反対に、もし、あなたが、人と共に暮らしてい
ても、あなたの親友や群衆及び感官の享受を貪
らないならば、あなたは独居していることに
なり、それはちょうど、仏陀がご自分の状況を
述べた、あのように、ということになる。
しかしながら、あなたの心が堅固でないなら
ば、依然として、他人及び感官の対象の影響を
受けることになりやすい。それならば、あなた
は、心身ともに独居するのが、望ましい。
ここで、私は、あなた方が、更にはっきりと
理解できるように、一つの例を、言いましょう。
《吉祥経(Maṅgala Sutta)》の中で、
仏陀は、智者と交わり、愚者から遠く離れるうに教えた。しかしながら、「智者と交わる」とは、彼に近づき、朝夕に彼と共にいることだけを
言うのではなくて、それは、智者に学び、
智者から智慧を獲得しなければならない、
と教えているのである。
「愚者から遠く離れる」は、これは決して、
絶対に愚者と一緒にいてはいけない、という
意味ではなくて、もし、彼に注意を促すため、
彼が正しい道を歩めるようにするためで
あれば、愚者と共にいることは問題がなく、
このようにすることは、《吉祥経》の教えに
背くということではない。
明確な例としては:仏陀がウルヴェラ園に滞在
していた時、一群の、邪見を持つ拝火教の外道
とともにいて、彼らが邪教を放棄するのを
助けた。
同様に、あなたは、他人と共にいてもよいだけ
ではなく、同時に独居の状態を保持することが
できる。ゆえに、共修は、独居の原則に違反
しない。ただ、あなたが「口頭禅」の修行を
好むときにだけ、問題は発生するのである。
もう一つ考慮しておかねばならない事柄は:
あなたすでに、阿羅漢果の証悟へと向かう
修行の道筋をはっきりと理解しているか
どうか、という問題がある。
もし、あなたがすでにそれを理解しているので
あれば、あなたは独居して一人で修行しても
問題はない。しかし、もし、あなたが、いまだ
理解してないのであれば、あなたは、あなたが
証悟できるよう、指導してくれる導師に
頼らなければならない。
これが、仏陀が《大空経》の中で話した独居の
長所である。
ある時、アーナンダ尊者が仏陀に言った:
比丘の梵行の成功の可否の半分の要因は、
善知識によって決まる、と。
しかし、仏陀は、彼に言った:
比丘の梵行の成功の可否は、完全に善知識に
よって決定される、と。
ここで言う善知識とは、あなたを指導して、
阿羅漢果を証悟させることができる人の事を
言う。ゆえに、あなた自身が解脱に到達する
ことを望み、また、他人が解脱に到達するのを
助けたいと望むならば、善知識から学ぶことは
非常に重要なことなのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
訳者コメント:ここでは、比丘尼が独居しても
いいかどうかの質問への回答が抜けているよう
です。仏陀が女性の出家に躊躇したのは、女性
が森の中で独居して修行する事の危険性を
考えた、という事もあるのでしょう。
仏陀は、女性は出家はできるが、森の中で
独居してはならない、と述べたそうです。
モーラミャインにあるパオ森林寺院も、山頂
付近が比丘の住まいで、女性出家者
(Sayalay)は、山のふもとに、棟割長屋の
ように建てたクティに、部屋を貰って住む
ことが多いようです(おしゃべり禁止の為、
原則、一人一部屋です)。
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>