パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-175
問1-10:禅師、以下の質問にご回答をお願い
します:
1、禅師の教える業処の内、断食法と禅の修行
の組み合わせ、というものはありますか?
2、断食は禅の修行に利益がありますか?
不利益がありますか?
食で道果を聖悟したという記載はありますか?
4、ある一人の法師が、現在断食中です。
彼女は今回のリトリート中、ずっと断食する
予定だそうです。しかし、このような、長期の
断食が心身に及ぼす影響は、どのようなもの
でしょうか?
答1-10:仏陀が成道した後に開示した第一番目
の経の中に、仏陀は、二つの極端がある、と
言った:
一つは、感官の享楽に迷い浸ること、もう一つ
は自己を苛む苦行である。これは二つの間違っ
た道である。感官の享楽に迷い浸る事は、涅槃
を証悟する道ではなく、これは一つの下賤な
行為であり、kāmasukha[llikanuyoga(欲楽へ
の沈迷)という。
この種の行為は下賤であり、村人の行為であ
り、凡夫の行為であり、聖者の行為ではなく、
真実の利益は、ない。
次に、心中の煩悩の生起から逃れるために、
各種の方法に依って、己を苛む事、たとえば、
炎の前に身体をさらす、強烈な太陽に光を浴
びる、長く手を挙げたままにする等など、
これらもまた、涅槃への道ではない。
これは、もう一つ別の下賤な行為で、attakilamathanuyoga(自虐的苦行)という。
この種の行為も真実の利益はなく、断食は、
この種の行為に属していて、仏陀が称賛した
行為では、決して、ない。
仏陀は常に、我々に対して、中道を修行する
ように言っている。
上述の二つの極端に偏ってはならない。
律蔵の中で、仏陀は一つの戒を設けた:
比丘、比丘尼は、鉢食をとる時、その正確な
目的を如実に省察しなければならない:
「私がこれらの食べ物をとるのは、子供が
それで遊ぶためというようなことでなく;
身体の強壮の強化に執着してるからでなく;
身体の美観のためでなく;
光り輝く皮膚の為でもない。
私がこれらの食べ物をとるのは、ただ身体の
活力を維持するためであり;
飢餓の苦悩を避けるためであり;
梵行の修行の助けとするためでる。」
これが、あなたが食べ物に対して持つべき
正しい態度である。
仏陀もこのような態度を保持していた。
仏陀が開悟して果を証悟する前、彼は6年間
苦行を修行したが、そのうちの一つは、
毎日一粒の米しか食さない、というもので
あった。
その後、彼は、これは利益の無い事であると
理解し、故に、彼は苦行を放棄し、正常に
食べ物をとるようになり、そのことによって、
体力を回復させた。
感官の享楽を捨て去る事と、無益な苦行という
この二つの極端を捨て去った後、彼は中道を
修行し、間もなく円満なる正覚を悟ったので
ある。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
★誤字脱字を発見された方は、当コメント欄
にてご一報頂くか、または<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>