9、法の修習において、各種の定に入るのは、
いかなる原因か?
仏は、経典の中で言う:
「謂二種相、一為所縁相、二為因縁相。所縁相、謂分別体、由縁此故、能入諸定;因縁相、謂定資糧、由此因縁、能入諸定」
まず先に「所縁相」とはどのような意味であるか説明する。
たとえば、我々は、仏号を念じ、止観、観想の修習、または気脈の修習などを行うが、それを初めて修習し始めたばかりの時、所得のある分別心(=利益・効果を期待する分別心)を用いて一つの仮想的な境地を造るが、それは皆、意識を用いているもので、意識を用いないで、どのような修習ができるというのだろうか?
一般に言われている、無念の修行は、意識を用いて清浄無念を修習するのであって、それはすなわち 「由有為来仮修、然後証到無為的真人」なのである。
このようにして初めて、不念でありながら念じている、念じていながら不念である、という境地に切り込むことができる。
道家の呂純陽が言うように、彼は、真人になった時《百字銘》を書いたが、最初の言葉が:
「養気忘言守、降心為不為、動静知宗祖・・・」まさに<一針見血>そのものずばりではないか。
次に「因縁相」、それは、二種類の資糧を具備していなければならない。
すなわち、智慧の資糧と福徳の資糧である。
資糧が不足していて、何を持って定を修習すると言うのか?
智慧の資糧が不足し、教理を一貫して理解しておらず、福報が足りないのであれば、瞑想・坐禅する資格もない。
どうしてか?
資糧を宿世(=前世)において、蓄積していなのであれば、今世で工夫を凝らして、努力しなければならないが、それさえもしないのであれば、修行をしようと思い立ったとき、雑多な物事が押し寄せてきて、あなたを悶死させる。
修行できるという事は大いなる福報であり、清浄なる福であり、多くの生、累劫において、修行しておかねば得られないものである。
この福徳の分を理解して初めて、定の修行を実践する決意を下せるのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)
訳者コメント:下線訳者。まずは有為の心で、とりあえず修行を
始め、修行を成功させて、無為の聖人になる、という意味。
★誤字脱字を発見された方は、当コメント欄にてご一報頂くか、
または<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。
<陳居士「修心与神通」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>