多くの経の中で、仏陀は、過去世の因が、現世の五蘊を形成する、と教えている。
たとえば:過去世の無明、愛(=渇愛)、取、行、業が、現世の五蘊を形成している、等々。
仏陀はまた、現世の因は、来世の果を齎す、と言う。
もし、あなたが、縁起の教えを認めないのならば、問題が発生する。
というのも、そうであれば、あなたは、仏陀は一連の無意味な話をした、または嘘をついた、ということになる。また、もし、縁起の教えが間違っているのならば、あなたは仏になるために波羅蜜を積む必要などなくなるではないか。
なぜか?
縁起の教えを否定するという事は、過去世の因が現世の果を造るのだという教えを否定することになるから、である。
もしそうであるならば、過去世の因は、あなたの現世に影響を与える事はなく、そうであるならば、あなたが過去世に行った善業は、全くの無駄、という事になる。
その上、もし、現世の因が、あなたの来世に影響しないのであれば、あなたは、己の心の欲するままに、殺生、偸盗、邪淫などの罪悪をしたい放題になして、なお、来世において、悪道に堕ちて苦るしむ危険性の心配をしないでも、よくなるではないか。
一切合切、すべては運任せであれば、仏になりたいからといって、四阿僧祇劫と10万大劫の時間を使って10波羅蜜を円満成就させる必要もない。
というのも、あなた(+の考えでは、あなた)の修行した波羅蜜は、すべて無効になるからである。
上記の考え、これは一つの重大な邪見であり、無作用見(akiriya-diṭṭhi)という。
ある種の人々は、以下のような反対意見を述べる。彼ら(=無作用見の人々)は、それでも、因果の作用、たとえば、食べ過ぎは因、消化不良は果、というような事柄を、観照することができるではないか、と。
しかし、仏陀はこのような因果を教えようとしたわけではない。というのも、一般の正常な人々は、皆この道理を知っているからである。
彼らは、己自身に自問すべきである。
この一世において、人間として生まれた原因とは何であるか?と。
それでも、彼らは、その業因は、今生で作られたものだ、と言うのだろうか?
当然、否、である。
しかし、彼らが、今生に人として生まれた業因は、今生において造られたと言う説を堅持するのであれば、彼らは、善業を行い、その後に天神になりたいと発願すればいい。
もし、現在の業因が、現世の果報を生むことができるならば、彼はいますぐに天神に成れるはずである。
しかし、彼は、それらの善業によって、いますぐ天神になることはできない。
なぜか?
というのも、今生で得た人身の業因は、必ず過去世のどれか一生の内から来ているからである。
このことから、縁起の教えは、想像上のものではない、ということがはっきりと見て取れる。
覚音論師を批判する人々が、彼が混乱を齎した、というのは間違いである。
我々は、これらの注釈に対して誠心誠意、敬いの心でこれらの注釈に対応するべきである。
というのも、それらは、仏陀と多くの大阿羅漢が残してくれた教えなのであるから。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(182、につづく)
訳者コメント:パオセヤドーは、台湾で法話をしているため、
念頭に、大乗の菩薩になりたい人々への質疑への回答を意識している。
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>