Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-184

問3-4:

禅師にお訊ねします。己自身が有分心に落ちた

ことを、どのようにして検分しますか?

有分に落ちないようにするには、どうしたらいいですか?

答3-4:

二つの心路過程の間には、多くの有分心が生起しては、滅している。

たとえば、今この現在、あなたは私の開示を聞いている最中だが、しかし、非常に多くの有分心があなたの心中において生・滅している。

これは自然現象である。

通常、人々は、有分心を察知することはできない。というのも、彼らの定力は非常に弱いから。しかし、あなた方が、定力を育成して近行定に到達したならば、人の心は、時々有分に落ち込む事、その時自分は何一つとして(+物事・対象を)知らないという感覚を持つことを理解する。

しかし、人々はそれでも、有分心を見ることはできないでいる。というのも、有分心の対象は、前世の臨死速行心が縁として取る対象であるから。ただ唯一、彼らが縁起法を修習するとき、かつ、前世の臨死速行心及びその対象を照見できたときにのみ、有分心を識別することができる。

問3-5:

私は以前、人に質問されて答えられずに困り切りました。禅師、助けていただきたいのです。小さな問題なのですがーー仏像は皆有髪なのに、なぜ出家者は無髪なのですか?

答3-5:

我々の菩薩の最後の一生の中で、彼がアノーマー河の川べりで出家した時、彼は自分で自分の髪の毛を切り、残ったのは、指二つ分の長さだけの髪の毛であった。

その時から、彼の髪の毛は、指二つ分の長さを保ち、それより短かったり、長かったりすることはなかった。

仏陀は、比丘、比丘尼に髪の毛を、最も長くて、指二つ分の長さに伸ばす事は許した。もし、髪の毛を指二つ分以上に伸ばしたならば、突吉羅罪(dukkata悪作罪)を犯すことになる。

ゆえに、あなたがそうしたいのであれば、あなたも自分自身の願望にそって、頭髪を指二つ分伸ばすことには、特に問題は、ない。

問3-6:

誰でも禅の修行はできますか?

禅の修行ができない人はいますか?

長らく禅の修行をしているのに、禅相が生じない、という事はあり得ますか?

それは、業障が重いため、またはその他の原因でそうなるのですか?

答3-6:

禅の修行は誰でもできる。

しかしながら、どうしても、禅相を得られない人はいる。

それは、彼らの過去世における業障である可能性はあるが、または精進が不足しているのかも知れないし、また、善知識の指導を得られない、方法を間違えているなどの原因がある可能性もある。

また、いくつかの原因が複合している場合もありえる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)

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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>