パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-195
問4-14:
人は言います:
「人が死ぬ時、生きた亀が甲羅を抜け出すようだ」と。
では、死後、期限を切った時間の中で、臓器を献体するのは、菩薩道なのでしょうか?
捨心が足りないのにこういうことをするならば、善趣に往生する事に影響しませんか?
生前、どのような心理的準備が必要でしょうか?
答4-14:
死んでから臓器を献体するのは、食べ残しのものを人に布施するようで、上等の布施とは言えず、一種の微弱な善業である。
菩薩は通常、生きているうちに臓器を他人に布施する。
仏陀の教法では、死後即刻(+どこかに)生まれ変わる。今生の最後の一個の心(死亡心)と来世の最初の心(結生心)の間には、その他の心識は存在しない。今生の死亡心が滅し去った後、来世の結生心は即刻生起する。
ここで私は、あなたに縁起の法の修行を通して、自ら体験することをお勧めする。今回のリトリートの間、何人かの禅の修行者は、縁起の法を修行するところまで到達した。もしあなたが十分に努力するならば、いつの日にか、生死の間の真実の状況を、自ら観る事ができるだろう。
問4-15:
禅の修行者の臨終において、特別に意外な事柄が生じないという状況の下、そばにいる人は、彼が正念を保てるように、どのように彼の手伝いをすればいいですか?
答4-15:
傍にいる人は、彼のために経を読むとか、説法するとか、ができる。
もし、臨終の人が、聞くことができて、かつ、経または説法を理解することができたならば、彼にとって非常に有効である。
実際は、己自身を頼りにするのが一番よいのである。もし彼が、観禅を修行して道果に到達することができるならば、それが最も良い。
もしそれが不可能ならば、臨終のときに観禅の修行をするのが、二番目に良い。
もしそれが不可能ならば、ジャーナを維持できること、それを死亡する時まで、維持できるのが望ましい。
その他の善業に関しては、あまり保険の役目を果たせない:布施、持戒などの善業は、善道への生まれ変わりを齎すが、しかし、臨終のときの不如理作意、悪業もまた善業を越えることがあり、それは、悪道への生まれ変わりを齎すからである。
問4-16:
四大分別観から安般念に換えて、呼吸を観るのは、何か問題がありますか?
答4-16:
ある種の修行者は困難を感じるかもしれない:
鼻と顔の部分で、四大が非常に明確に分かるので、彼は呼吸に専注することが難しくなる。
しかし、ある種の修行者には、このような問題が発生しない。彼は一心に呼吸に専注することができる。
すでに四大分別観を修行して成功した人で、色業処も修行した人にとって、安般念の修行は簡単である。
観禅の修行をした人も同様である。
問4-17:
(+先ほど禅師が)質問の回答をするとき、シューリパンダカの物語で、「心は本来清浄なものである。しかし、貪、瞋、痴に接触することが原因で、心は汚れてしまったのだ」と言いました。
もし「本来の心」というならば、常見に落ちる事はありませんか?
または、私が禅師の言う意味を取り違ったのでしょうか?
禅師、ご説明をお願いします。
心はなぜ、本来清浄なのでしょうか?
答4-17:
「心は本来清浄である」というこの言葉の中の「心」は、特に有分心について言ったものである。
《法聚論Dhammasaṅghanī》の注釈である
《殊勝義註Aṭṭhasālinī》の中に書かれているように、有分心は清浄である。
それは一種の果報心で、貪、瞋、痴などの不善心所とは、相応しない。
一切の果報心、善心、および唯作心もまた、清浄である。
というのも、それらは、貪、瞋、痴等の不善心所と相応しないから。
《アビダンマAbhidhamma》の復註である
《根本復註Mūlaṭīkā》によると、すべての心は皆清浄であり、ただ、心所が、清浄であったり、不清浄であったりする。
不善心所は不清浄であり、その他の心所は皆、清浄である。
しかしながら、南伝の教法では、いわゆる「本来の心」というものは立てない。
南伝の経典では:有分心を主人といい、六門心路過程を客人とする、と言っている。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>