問4-18:
もし、すでに安般念を修行して、第四禅に到達しているならば、慈心観を修習しないで、直接、悲心観を修習して、初禅を得ることはできますか?
同じ理屈で、慈心観、悲心観を修習しないで、直接、喜心観を修習するか、または慈、悲、喜心観を修習しないで、直接、捨心観を修習して初禅を得ることができますか?
もし、できないとしたら、理由は何ですか?
答4-18:
禅の修行者は、直接慈心観、悲心観または喜心観を修習して、初禅を証することができる。
しかし、捨心観を修習する場合は、ただ第四禅が得られるだけである;
もし、禅の修行者が、捨心観第四禅に到達したいのであれば、彼は、先に慈心観、悲心観、喜心観を修習して第三禅に到達しておかねばならない。順序に従って、上述の三種類の法門を修習して第三禅に到達した後、それらを基礎にして、ようやく捨心観を修習して、第四禅に到達することができる。
問4-9:
安般念を修行して、すでに第四禅に到達した後に、なぜ、白遍、褐遍、黄遍、赤遍を修行して、第四禅に到達しなければならないのですか?
この四つの遍を修習するのは、それぞれどのような利益がありますか?
それは観禅の修行の、助けとなりますか?
答4-9:
禅の修行者は、遍処禅を必ず修行しなければならない訳ではない。
しかし、遍処禅を修行することは、大きな利益がある。
その理由は:このように修行した後、禅の修行者の定力は更に強くなり、色業処、名業処及び縁起の修行を、しやすくなる。
また、彼は、はっきりと明確に、究極色法、究極名法及びそれらの因を照見することができるようになる。
もし彼が、すべての八定を証することができたならば、それが最も好ましい。
また、もし彼が白遍、褐遍、黄遍、赤遍を基礎にして八定を証するならば、(+それ以後)彼は、どのような白色、褐色、黄色、赤色の物体~たとえば:石、花、雲、布等を対象にしても、遍禅を修行することができる。
そうして、彼は、どのような時でも、どのような場所においても、それらの色に専注しさえすれば、彼はジャーナに到達することができる。
このように修行する時、彼の心路過程の中に、非常に多くの善業が生じる。ゆえに、各種の遍処を修行することは、仏法を体現・証悟するのに、非常に役に立つのである。
問4-20:
安般念を修行して、初めて第四禅を証するのと、白遍を修習して、初めて第四禅を証するのと、その定力は、同じですか?
もし10人の人が、それぞれ別々の10種類の異なる遍処を修習する時、初めて第四禅を証した時の定力は、同じですか?
答4-20:
彼らの定力は、同じではない。
たとえば:10遍の中で、白遍は、最も静かである。次に、仏陀の第四禅は、その他の人々の第四禅より更に強い。というのも、仏陀の第四禅は、双神変を顕現することができるが、他の弟子にはできないが故に。
マハーモッガラーナ尊者の第四禅は、その他の弟子の第四禅より更に強い。というのも、マハーモッガラーナ尊者の第四禅は、憤怒の難陀跋難龍王を降伏することができ、その他の弟子の第四禅は、不可能であるから。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>