今朝、インターネット上のニュースで、インドの不可触賎民(ダリット)が、製粉機を使ったのを教員に「けがれる」と咎められ、斧で首を切られるという事件がありました。
私の次男は写真家で、たびたびインドに行きますが、ダリットの生活は悲惨だと、よく言っています(彼は一つの村が建設されるのを、更地の始めから写真に撮ったのですが、炎天下、レンガを運ぶのはダリットたちで、皆、素手なのだそうです)。
仏陀は言いました「人が高貴であるかどうか、婆羅門であるかどうかは、生まれではなく、その行いで決まる」「万人は平等である」と。
私たちはナーマ(心、精神作用)とルーパ(物質、身体)、すなわち五蘊でできています。
外から見ると、背の低い人高い人、賢い人そうでもない人、人の属性は色々ですが、しかし、その属性を取り去った後に残されるナニカ(私は<it>と呼んでいる)は、万人に同じ。
「五蘊は空である」ことが分かれば、人種差別、階級差別、性差別などは不毛であることが分かるでしょう。
ヒンズー教の良心的な一部の人々は、万人は平等である事を知っています。しかし、この事件から、いったんしみついた既得権(選民意識)をぬぐうのもまた、非常に困難であることが分かります。
仏教がインドで滅び、タイ、ミャンマー、中国など、階級制度が比較的ゆるやかな国、地域で生き延び、広がったのは、理由があるのでしょう。
佐々井秀嶺師率いる、インドの仏教改宗運動に期待します(佐々井師は<輪廻はない派>ですが、これは政治的戦略かな、と私は思っています。ゴエンカ師(遷化)は<輪廻ある派>ですが、佐々井師の運動そのものは、非常に評価しています)。