Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~今更聞けないテーラワーダ(9)

<お葬式とお墓>

タイで在家の主婦が癌で亡くなった時、そのお葬式に参加したことがあります。

斎場兼火葬場に集まった皆さん、全然深刻でなくて、泣いている人はいません。大人はちょっと地味目の普段着、子供たちはパーティで着るようなピンクや黄色のドレス。

喪主である主婦の弟は、次週に出かけるインド旅行の事で、旅行社の社員と打ち合わせ・・・えっ、大丈夫なの?こんな所でって、こっちが心配するくらい自然体。

テーラワーダの僧侶は、仏陀の教えを守ってお葬式に関与しません。

在家の方が式次第を主導し、僧侶はお客さまとして呼ばれて(この時は三名)、その亡くなった方に相応しいお経を一つ、二つ読んで、お布施を貰って、そのままお寺に戻ります。

私が見たときは、僧侶は衣を貰ったようです(喪主が見栄を張れば、お布施も高額のものになるでしょうが、僧侶が元々高額な品物に囲まれて生活している訳もなく・・・)。

勿論、死んだ人に戒名を授けるような、理解に苦しむ儀式もないし・・・。

この方のお墓がどうなっているかは、残念ながら聞き漏らしました(通常は、共用のストゥーパ卒塔婆、仏塔のように胴が太く、そこが空洞になっている~に入れてしまってお終い、と聞いています。共同墓地ですね)。

 

ある時、パオ森林寺院本山で、老齢の比丘が亡くなりました。午後、台所の傍の空き地に集まるようお触れがでて、行ってみると、木材が井桁に組まれてあって、程なく、4人の若者に担がれてご遺体が到着。そのまま、井桁の上でゴーゴー火葬。ビジュアル的にはすごい衝撃でしたけど、「人は輪廻する」という前提で言えば、残された肉体には何の意味もない。

遺骨は、そばに掘ってあった溝(一応、煉瓦で囲ってある石室。ただし誰もお参りしない)に投げ入れて終了。

死んでからの事を心配するより、生きている内に精一杯、命の秘密に迫ってみたい。

そう思います。