Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「南伝仏教キホンのキ」(翻訳文)1-2

上座部仏教によると;

仏陀は千変万化、求めれば必ず応じてくれる神、ではなく、また、どこにでもいて、できない事は何一つとてないという、そのような救世主でもない。

仏陀は、一人の、智慧と徳行が円満な覚悟者(=覚醒者、悟りを得た人)であって、煩悩を断つ方法を教えてくれる導師である。

仏法は、仏陀が教えた法で、煩悩を断じ、諸々の苦を滅し尽くす方法である。

後世において、これらの教えは成文化されて、仏典となった。

たとえば、一人の病人が、処方箋を受け取り、薬を買いに行くとして、その薬を飲まなければ、病は治らない;

ただひたすら処方箋を押し頂き、それを読み続けても、薬を飲まないのであれば、病の治る事はない。

同様に、経典を、禍を免じて幸福を引き寄せる事のできる霊丹妙薬として捧げ持ち、生(=輪廻)を終了させ、死から脱出させる事ができる、真言の呪文だと見做すだけで、教えを奉行し、経に依って実践しないのであれば、煩悩は永遠に断じ、取り除く事はできないのである!

僧とは、仏陀の教法を実践し、かつ伝承する(+仏陀の)弟子であり、三蔵を学び実践し、戒・律を守り、止・観の修行に努める義務がある(自利)。

また、正法の伝承に責任を持ち、世の人々を教え導き、社会を教化する職責がある(利他)。

僧は、その清浄なる戒行によって、大衆の精神的指導者として、また道徳的模範として、社会の尊敬と尊重を受ける。

僧は、祭司ではないし、巫女・サニワでもないし、神と人間を取り持つ仲介者でもない。更に言えば、現実逃避、無学徒食、終日飽食の社会的寄生虫では、決して、ない。

もし、南伝仏教の比丘が、他人に代わって罪業を滅ぼすことができると言い、消災延命を言い、亡者の超度ができると言うならば、それはただ、他人と己自身を騙す、詐欺のテクニックにすぎない。

もし、比丘が祭祀、呪文、占い、手相、面相、邪気払いなどの名目で信者の金銭をだまし取ったならば、それは堕落であると見做され、恥ずべき邪命(正当でない命のつなぎ方)と見做される。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-3につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>