仏教書の翻訳をしていると、仏教用語の定義に悩まされることがあります。
例えば、<煩悩>を中国語で<fan・nao>と読むと、割と明確なイメージが湧きます。
凡夫の日常レベルに置き換えると、それは、ストレス、心配事などとなり、ない方がよいので、努力して、なくす対象だ、ということになります(アビダンマの正式な定義では、煩悩とは、貪、瞋、痴の三毒の事をいう、とあります)。
日本の<煩悩>は、もう少し複雑で、情緒的なイメージがあり、<煩悩なんてなくならないよね>などと言われ、ちょっと自己弁護の様相を呈しているように感じます(勿論、煩悩も色々あって、潜在意識にもぐりこんだ、繊細なもの~随眠煩悩は、なかなか消えないのも事実ですが)。
観禅(ヴィパッサナ)の訳もやっかいですね。
観禅は、<無常・苦・無我の三相を如実に観察する事>と定義できますが、それを身体の痛い、痒い、心の嬉しい、悲しいを観察するのを観禅というのか、それとも、色聚(ルーパカラーパ、素粒子より大きく、細胞より小さい物質)の段階における無常・苦・無我を如実に観る事、心基から出てくる心(チッタ)の刹那生・滅(受・想・行・識)を如実知見するのを観禅というのか、なかなか悩ましい所です。
私は仏教書の翻訳者として、その時その時、最もふさわしいと思われる語彙を選んで翻訳しますが、仏教に関して基本的に独学で、浅学につき、色々勘違いしているかもしれません。
先輩諸氏のご指摘を頂ければ幸いです。