南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~4-4

3、二種類の極端

二種類の極端な行為について、仏陀はこう

述べている:

「一種類は、感官の享楽に迷い、沈潜する事で、これは低俗な、粗野な、凡夫の、非神聖な、利益のない行為である;もう一つは、己を苛む苦行で、これは苦痛で、非神聖で、利益のない行為である」

ここにおいて、仏陀の言う二種類の極端な行為の内、一つは、感官の享楽に迷い、沈潜する事である。

我々の菩薩ーーシッダッタ太子は、出家する前、長年にわたって、感官の享楽を享受していた:

彼は、一年の内の三つの季節に合う三座の豪華な宮殿(+を持っていて、季節ごとに、それに)住み分けていた;

美しくて忠実な妻ーーヤソーダラを娶っていたし、可愛い息子ーーラーフラにも恵まれた;

彼の周囲にいた人々や出来事は皆愉快で楽しいものだった。

しかしながら、彼はこの豪奢な生活の中で、彼が(世々代々)探し求めてきた真理を見つける事はできなかった。

これが、なぜ彼が成道の後、「感官の享楽に迷い、沈潜する事は低俗な、粗野な、凡夫の、非神聖な、利益のない行為である」と宣言したか、という理由である。

もし比丘が感官の享楽に迷い、沈潜するならば、彼は欲楽への執着は日増しに強くなり、貪欲の渦に巻き込まれて、自ら抜け出せなくなり、そのゆえに、涅槃を証すること、またはその他の比較的低いレベルの禅の修行の成果さえも、証悟することはできないのである。

もう一つの極端は、己を苛む苦行である。

それはたとえば、呼吸を止める時間を徐々に伸ばしていくとか、断食、草を食べる、苔を食べる、土を食べる等;一日一粒の豆だけ、一粒のゴマだけ、または一粒の米だけを食べる、長時間一本足で立つ、棘の上で寝る等々である。

古代のインド人は、煩悩は身体から来ていると考えて、色々な方法で己の身体をいじめて、煩悩を断とうとしたのである。

我々の菩薩は、出家の後、色々な、己を苛む苦行を修行したけれども、その辛苦は、他の人々と、比べられない程であった。

彼の身体は極度に衰弱し;

彼の両足は、葦のように細かった;

彼の坐骨はラクダの蹄の様であった;

彼の背骨は一本の綱のように、背中から飛び出ていた;

彼の肋骨は、荒れ家の梁のようであった;

彼の眼は、深く頭部に落ち込んでいて、深い井戸の底にある水のようであった。

彼はもう死ぬかと思うほどの修行をなしたが、たとえこのような艱難辛苦の修行をしたとて、彼は己が長年探し求めていた真理を見つけることはできなかった。

故に彼は、成道の後、このように宣言したのである:「己を苛む苦行は苦痛で、非神聖で、利益のない行為である」。

もし比丘が、己を苛む苦行に迷い沈潜するならば、身体は衰弱し、心もまた激痛が原因で落ち着かず、そのことが原因で、深くて厚い定力を育成することができない。

深くて厚い定力が無いとき、諸法を如実に知ることはできず、故に四聖諦を徹底的に証悟することはできない。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-5につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>