3、二種類の極端
二種類の極端な行為について、仏陀はこう
述べている:
「一種類は、感官の享楽に迷い、沈潜する事で、これは低俗な、粗野な、凡夫の、非神聖な、利益のない行為である;もう一つは、己を苛む苦行で、これは苦痛で、非神聖で、利益のない行為である」
ここにおいて、仏陀の言う二種類の極端な行為の内、一つは、感官の享楽に迷い、沈潜する事である。
我々の菩薩ーーシッダッタ太子は、出家する前、長年にわたって、感官の享楽を享受していた:
彼は、一年の内の三つの季節に合う三座の豪華な宮殿(+を持っていて、季節ごとに、それに)住み分けていた;
美しくて忠実な妻ーーヤソーダラを娶っていたし、可愛い息子ーーラーフラにも恵まれた;
彼の周囲にいた人々や出来事は皆愉快で楽しいものだった。
しかしながら、彼はこの豪奢な生活の中で、彼が(世々代々)探し求めてきた真理を見つける事はできなかった。
これが、なぜ彼が成道の後、「感官の享楽に迷い、沈潜する事は低俗な、粗野な、凡夫の、非神聖な、利益のない行為である」と宣言したか、という理由である。
もし比丘が感官の享楽に迷い、沈潜するならば、彼は欲楽への執着は日増しに強くなり、貪欲の渦に巻き込まれて、自ら抜け出せなくなり、そのゆえに、涅槃を証すること、またはその他の比較的低いレベルの禅の修行の成果さえも、証悟することはできないのである。
もう一つの極端は、己を苛む苦行である。
それはたとえば、呼吸を止める時間を徐々に伸ばしていくとか、断食、草を食べる、苔を食べる、土を食べる等;一日一粒の豆だけ、一粒のゴマだけ、または一粒の米だけを食べる、長時間一本足で立つ、棘の上で寝る等々である。
古代のインド人は、煩悩は身体から来ていると考えて、色々な方法で己の身体をいじめて、煩悩を断とうとしたのである。
我々の菩薩は、出家の後、色々な、己を苛む苦行を修行したけれども、その辛苦は、他の人々と、比べられない程であった。
彼の身体は極度に衰弱し;
彼の両足は、葦のように細かった;
彼の坐骨はラクダの蹄の様であった;
彼の背骨は一本の綱のように、背中から飛び出ていた;
彼の肋骨は、荒れ家の梁のようであった;
彼の眼は、深く頭部に落ち込んでいて、深い井戸の底にある水のようであった。
彼はもう死ぬかと思うほどの修行をなしたが、たとえこのような艱難辛苦の修行をしたとて、彼は己が長年探し求めていた真理を見つけることはできなかった。
故に彼は、成道の後、このように宣言したのである:「己を苛む苦行は苦痛で、非神聖で、利益のない行為である」。
もし比丘が、己を苛む苦行に迷い沈潜するならば、身体は衰弱し、心もまた激痛が原因で落ち着かず、そのことが原因で、深くて厚い定力を育成することができない。
深くて厚い定力が無いとき、諸法を如実に知ることはできず、故に四聖諦を徹底的に証悟することはできない。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-5につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>