今年の夏、クムダ・サヤドーの、熱海での
リトリートが終わった後、私は『無我』
(ブッダダーサ尊者著)という本の翻訳に
取り掛かりました(現在<菩提樹文庫>で
公開済み)。
最も重要な問いかけ、「私とは誰か?」に
ついて、誤解が多いのではないか?と
思ったからです。
誤解する、その一つの理由が、「仏教は無我
である」と言われて「ああ、私なんていなんだ」
と思ってしまう事に、あると思います。
ブッダダーサ尊者も著書『無我』の中で、
「無我」を説明するのは非常に難しい。
「無我」の説明が上手にできないが為に、
仏教はインドから姿を消したのだ、
と述べています。
先日、『仏陀与仏法』(ナーランダ長老著、
中国語版)という本を読んでいましたら、
こういう表現がありました。
以下のような文言がある:
「此身非我、非我所、非我之霊魂」
(Ne'tam mama、 n'so'ham asmi,
na me so atta。)
この中国語訳が合っているかどうか分かり
ませんが、一応合っているという前提で、
私の意見を書いてみます。
上記の中国語を、日本語に直しますと、
以下の通り。
この身体は、”私”ではない。
この身体は私のものではない。
この身体は、私の霊魂ではない。
仏陀はしかし、<本当の私はない>とか、
<私はいない>とか、言ってはいないのです。
仏陀は、身体は霊魂ではないし、身体の中に
霊魂があるという事もない、と言って
いるのです。
この事は、観禅で色聚(ルーパカラーパ)の
離合集散を観れるようになった人は、
如実に分かると思います。
心・身は己のものではない、という事は
修行すれば分かります。
では、誰が誰のために修行し、涅槃へ
行こうとしているのか?
もう一度言います。
「無我」(上記文中赤文字で示した部分の、
非我は無我と同じ意)とは、身体(五蘊
とも理解できる)の中に、それを主宰
(=コントロール)する主宰者(=神、霊魂)
はいない、という意味であって、決して、
「私はいない」という意味ではありません。