今朝、二男のフェースブックを見ていると、誰かさんのフェースブックに繋がりました(こういう仕組み、PC音痴のわたくし、実は、余りよく分かっていないのですが)。
その誰かさんの記事がなかなか面白かったので、簡単にご紹介。
それは今はやりの、マインドフルネスについてで、彼女は言います:
「マインドフルネスは、マインド(頭)をフル回転させる事だと理解すると、間違ってしまう。本来は、心・身をフル回転させるのだけれど、重点は<身体>にある。
身体に生起する、一回性、突発性の出来事を観察し(=無常の観察)、身体にそういう出来事が生起することを許す(=無常の受容)、それがマインドフルネスだ」というのです。
私も賛成です。
自分自身が、よりマインドフルネスになるには、身体に生起している現象を、無言で観る、という方法があります。
例えば、人に何か言われて、怒りが湧いた、としましょう。
怒っている<心>に焦点を当てるのではなくて、<身体>に焦点を当てて、観察します。
すると、身体は、怒りで熱くなり、全身の毛穴が開くか又は、キュッとしぼむような感じがします。
その現象の始まり(生)から、途中(住)、終わり(滅)までを、第三者の目で、冷静に<観察>するのです。
いいとか、悪いとかの、批判や評価は必要ありません。
「これは怒りだ」というラべリング、レッテルもいりません。
それを何度も繰り返して、観察が上手くなった時、自分が怒りだと思っていた現象は、実は怒りではなくて、ただ身体が熱くなり、毛穴が一瞬開いた後、次に、キュッとしぼんだだけなのだ・・・ただの身体現象、オナラと同じじゃね・・・アッハッハ・・・後はご自分で試してみて下さい。
言葉は、物事を指し示すと同時に、意識を限定する、意識を分節する機能を持っており、心の解放には<諸刃の剣>になる事もあります。言葉を使って己の心を解放する時と、沈黙行による解放、それぞれ上手に使い分けましょう。