Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~マインドフルネス

今朝、二男のフェースブックを見ていると、誰かさんのフェースブックに繋がりました(こういう仕組み、PC音痴のわたくし、実は、余りよく分かっていないのですが)。

その誰かさんの記事がなかなか面白かったので、簡単にご紹介。

それは今はやりの、マインドフルネスについてで、彼女は言います:

「マインドフルネスは、マインド(頭)をフル回転させる事だと理解すると、間違ってしまう。本来は、心・身をフル回転させるのだけれど、重点は<身体>にある

身体に生起する、一回性、突発性の出来事観察し(=無常の観察)、身体にそういう出来事が生起することを許す(=無常の受容)、それがマインドフルネスだ」というのです。

私も賛成です。

自分自身が、よりマインドフルネスになるには、身体に生起している現象を、無言で観る、という方法があります

例えば、人に何か言われて、怒りが湧いた、としましょう。

怒っている<心>に焦点を当てるのではなくて、<身体>に焦点を当てて、観察します。

すると、身体は、怒りで熱くなり、全身の毛穴が開くか又は、キュッとしぼむような感じがします。

その現象の始まり(生)から、途中(住)、終わり(滅)までを、第三者の目で、冷静に<観察>するのです。

いいとか、悪いとかの、批判や評価は必要ありません。

「これは怒りだ」というラべリング、レッテルいりません。

それを何度も繰り返して、観察が上手くなった時、自分が怒りだと思っていた現象は、実は怒りではなくて、ただ身体が熱くなり、毛穴が一瞬開いた後、次に、キュッとしぼんだだけなのだ・・・ただの身体現象、オナラと同じじゃね・・・アッハッハ・・・後はご自分で試してみて下さい。

言葉は、物事を指し示すと同時に、意識を限定する、意識を分節する機能を持っており、心の解放には<諸刃の剣>になる事もあります。言葉を使って己の心を解放する時と、沈黙行による解放、それぞれ上手に使い分けましょう。