「南伝仏教キホンのキ」(翻訳文)2-10
ここでもう一つ物語りを紹介したい。
仏陀御在世の時、名前をヴァッカリ(Vakkali)という青年がいた。ある日、彼は、町で仏陀に出会い、仏陀の英俊な風貌と、荘厳なたたずまいに深く引き込まれた。
常に仏陀を見ていたいが為に、彼は出家して比丘になった。
出家の後、彼は経の教えを学ぶわけでもなく、禅の修行をするわけでもなく、一日中仏陀について回るだけだった。
仏陀は、しかし、彼と一言も言葉を交わすことはなかった。
ある日、仏陀は、彼の智慧が熟すときが来たと判断し、彼を𠮟った:
「ヴァッカリ、君は一日中私の、この腐った体を眺め続けて、一体何をしているのかね?すべて、法を見る者は、すなわち、私を見ているのである;すべて、私を見る者は、すなわち、法を見ているのである!」
しかし、彼はそれでもなお、仏陀から離れる事ができなかった。
仏陀は、彼を追い詰めなければ悟ることはないと分かっていたので、遠慮なく彼を追い出した。
ヴァッカリは、追い出された後、非常に絶望し、山に登って崖から飛び降りて自殺しようとした。
この時、仏陀が彼の前に現れて、彼に法を説いた。
その時、彼は悟ったのである。
仏陀は、般涅槃する直前にこう言っている:
”香、花を用いれば、如来に敬意、尊重、敬礼、奉仕、尊敬を表す事ができる、などという事はない。
もし、弟子たちが、法に従って順序良く修行し、法に従って正しく修行するならば、これこそが如来への敬意、尊重、敬礼、奉仕、尊敬であり、至上の奉仕である!”
教師の後に附いて回ったり、教師のイエスマンであったり、教師に絶えず贈り物をする学生がよい学生である訳がない。
勤勉で、好学で、辛抱強く、品格と学問とが共にすぐれている学生こそが、良い学生である。
そして、このような学生だけが、真正に文化・知識を掌握することができる。
仏陀の教えは、自ら実践し、自ら体験することを強調している。
智慧と覚醒(=悟り)は、他人にお願いして、頂いてくるものではない。
煩悩を断絶する事は、他人に代わってやってもらう訳にはいかないのである!
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-11につづく)
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<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>