パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~4-13
5-2、苦集聖諦
経文は、第二項の聖諦を、以下のように解説する:
「比丘たちよ。これが苦集聖諦である;
それは生まれ変わりを齎す貪愛であり、四方に愛楽を探し求めるが、それはすなわち、欲愛、有愛及び非有愛である。
比丘たちよ。これが苦集聖諦である。」
この経文の中で、仏陀は貪愛は集諦であると、教えている。
《増支部・立処経》(Aṅguttara Nikāya、Tiṭṭhāyatana Sutta)の中で、仏陀は縁起を集諦であると教え示している。
私は、当該の経の一部分を引用して、苦集聖諦について解説する:
「比丘たちよ。苦集聖諦とは何か?
無明の縁により行があり、
行の縁により識があり、
識の縁により名色があり、
名色の縁により六処があり、
六処の縁により触があり、
触の縁により受があり、
受の縁により愛があり、
愛の縁により取があり、
取の縁により有があり、
有の縁により生があり、
生の縁により老い、
死、愁、悲、苦、憂、悩がある。
一切の苦の蘊は、このように生起する。」
このように、無明(avijjā)、愛(taṇhā)、取(upādāna)、行(saṅkhāra)と業(+または有、有業とも、kamma)は、皆、集諦である。
簡単に言えば、一切の不善業と、生まれ変わりを齎す善業は、みな集諦である。
《分別論・諦分別》(Sacca Vibhaṅga)の中で、仏陀は五種類の方式で、集諦を解説している:
1、貪愛(taṇhā)は集諦である;
2、10種類の煩悩(貪、瞋恚、痴、驕慢、邪見、疑、昏沈、浮つき、無慙、無愧)は集諦である;
3、一切の不善法は集諦である;
4、一切の不善法及び生まれ変わりを齎す三つの善根(無貪、無瞋、無痴)は集諦である;
5、一切の不善法と生まれ変わりを齎す善法、または一切の不善業と生まれ変わりを齎す善業は、みな集諦である。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-14につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>