パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~4-14
一切の不善業と、生まれ変わりを齎す善業は、すべて集諦である。
それではなぜ、仏陀は、当該の経文において、ただ貪愛だけを集諦である、と述べたのか?
それはたとえて言えば、一粒の種の中に、いまだ水分が含まれているか、または(+エネルギーが)潜在している時、それを適切な環境におけば、それは根を生やし、発芽するがそれと同様に、業力に貪愛が伴う時、それは果報を結果する;もし、貪愛がないならば、業力はいかなる果報も結果することはない。
これが、なぜ、仏陀が貪愛は集諦である、と述べたか、という理由である。
貪愛の故に、衆生は「四方へ愛楽を追い求める」。
私は、《アッサカ本生経》(Assakajātaka)の物語を引用して、衆生はどのように、四方へ哀楽を追い求めるかを、説明したいと思う。
ある時、世尊が祇園精舎に住んでいた時、彼は、一人の前妻を思慕する比丘に、この物語を語った。
世尊は、その比丘に、本当にその女性を思慕しているのかと尋ねた。
その比丘は答えて曰く:「はい。」
世尊は、続けて尋ねる:「あなたが思慕しているのは誰ですか?」
比丘は答える:「すでに亡くなった、私の前妻です。」
その時、世尊は言った:「比丘よ、あなたは、今回だけ、その女性に対して、貪愛で(+心が)一杯なだけでなく、過去においても、彼女のあなたへの愛が、あなたを極めて苦しめたのです。」
そして、世尊は次のような物語を語った。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-15につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>