南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~4-20

5-3 苦滅聖諦

次に、経文は第三番目の聖諦を説明する:

「比丘たちよ。これが苦の滅する聖諦である:

すなわち、この貪愛の無余なる滅尽、捨棄、遣離(=手放し、離れる事)、解脱、無著である。」

当該の経の中で、仏陀は貪愛の無余(=完全な、以下同様)なる滅尽は滅諦であると述べている;しかし、その他の経の中では、仏陀は、苦諦の無余なる滅尽は滅諦である、と述べている。どうして、このような二種類の異なる説明が存在するのか?実際は、それらは同じことを指し示しているのである。

貪愛の無余なる滅尽によって、または無明、愛、取、行、業の無余なる滅尽によって、五蘊(苦諦)は無余に滅尽するからである。

果が滅するのは、因が滅するが故である;因が滅することによって、果が滅する。この二種類の説明の仕方の内、一種類は、因の滅によって説明しており、もう一種類は、果の滅によって説明しているのであるが、事実上は同じ道理を言っているに過ぎないのである。

これが、仏陀が、ある時は、貪愛の無余なる滅尽を滅諦であると言い、ある時は、五蘊の無余なる滅尽を滅諦であると言う、その理由である。

《増支部・立処経》の中で、仏陀は、縁起の無余なる滅尽もまた滅諦である、すなわち、苦滅聖諦であると説明し、指導している。

私は、当該の経の一部分を引用して、苦滅聖諦の説明をしたいと思う:

「比丘たちよ。苦滅聖諦とは何か?

無明の消失と(+無明の)無余なる滅尽によって、行が無余に滅尽する;行が無余に滅尽することによって、識が無余に滅尽する・・・この一切の苦の蘊が無余に滅尽する。

比丘たちよ。これを苦滅聖諦と呼ぶ。」

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-21につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>