「南伝仏教キホンのキ」(翻訳文)3-13
第四節 煩悩の生起
煩悩は、どのようにして生起するのか?
前述した通りに、あらゆる名法(心理的現象)は、それぞれ目標を持つ。そして、常に目標を認知する作用を執行している。
我々の、普通に言う所の生活とは、心が不断に異なる目標を認識している過程であるか、または、心が、外部の世界と、不断に、相互に、関係性を発生させる過程なのである。
我々はどのような様式でもって、外部の世界と相互に、関係性を構築しているのか・。
(+それは)感官を通してであって、仏教なら、根門と言われるものである。
6個の根門がある:眼門、耳門、鼻門、舌門、身門と意門である。
この6個の根門に依存して生起する心を、六識と言い、それらは、それぞれ対応する目標を認識するのである:
1、眼識が見ているのは、色彩である;
2、耳識が聞いているのは、音である;
3、鼻識が匂っているのは、匂いである;
4、舌識が味わっているのは、味である;
5、身識が接触しているのは、触覚である;
6、意識が思惟しているのは、法所縁(各種の現象)である。
我々は毎日、各種の異なる情報に接触し、各所の異なる心身の活動を行っているが、しかし、実際は、六種類の主・客が、お互いに影響し合う関係性の中にある事に他ならないのである。
目、耳、鼻、舌、身体、意を離れ、色彩、音、匂い、味、触覚を離れて、または思いめぐらす何かを離れて、いわゆる心身というものは存在しなし、いわゆる外部環境というものも、存在しないのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(3-14につづく)
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<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>