八聖道の中の<正念>は、パーリ語でサンマ・サティと言い、英語では<マインドフルネス><アウェアネス>と訳されました。
そこから、日本では正念を、気づき、気づいている事と、説明されるようになりました。
最近、パオ・セヤドーの著書「顕正法蔵」の、いまだ翻訳していない先の部分を読んでいて、正念は、己の瞑想の目標、たとえば、安般念なら鼻の周りの息に関して、<つねに憶念して忘れない事>、と書いてありました。
そこで実験してみて、私は、(息に)気付いている事と、(瞑想の対象を)覚えていて忘れない事とは同じようでいて、実は、異なる事に気が付きました。
正念、すなわち、己の瞑想の目標がなんであるかを、どのような時にも忘れない事、これができたとき、日常レベルでの修行が非常に進むのではないか?
そして、<気付き>とは、実は、正定における専注の事ではなかったか?
人が目覚めている間中、正念でもって、瞑想の目標を忘れないでいて、坐禅・立禅・歩行禅、臥禅をする時には、瞑想の対象に<専注>する。
すなわち、覚えていて忘れない事と、高度の集中力によって、<気づいて>いる事とは、異なる実践内容だ、ということ。
このように理解すると、頭の整理がついて、修行がしやすくなったように思います。
もし、これまで、正念の定義で、混乱していた方がいらっしゃいましたら、ぜひ、お試し下さい。