南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~4-26

7-1 適切な場所

仏陀は「比丘は森林、木の下または静かな場所に行き・・・」という経文の中で、禅の修行者が正念を育成するための、適切な場所について述べている。

一般的に、いまだ修行を始める前、禅の修行者の心は、すでに非常に長い間、音や物質などを欲楽を目標とする生活に住していて、禅の修行の道に入るのを嫌う。というのも、彼の心は、欲楽のない環境の中で生活する習慣がないからであり、それはまるで、野生の子牛に車を引っ張らせるのと同じように、子牛が、すぐに道路の外に走り出てしまう(+のと同じである)。

修行を始める前、彼の心は、各種の欲楽を目標として、それに接触するか、またはそれを楽しんでいる・・・たとえば、面白い映画、耳に心地よい音楽、美味しい食べ物、または楽しい社会生活など。

しかし、(+修行しようとする)今では、映画もなく、音楽もなく、彼の目も耳も、楽しむ対象がない。

ゆえに、魚が誰かにつかまって、水中から取り出されて、乾燥した地面に放り出されたかのように、彼の心は、苦痛のために飛び跳ねて、水中に戻りたいと思う。

呼吸というものは、欲楽を渇望する彼の心にとっては、乾燥した地面の如く、実際、退屈で味気のないものなのである。

そして、坐禅の時には、彼は息に専注しないし、大部分の時間を、過去において享受していた欲楽について回顧するのに、用いるのである。

しかしながら、そうなれば、それはただ時間を浪費しているだけであり、心の成長になんらの利益も齎さない。たとえ彼がこのようにして、一生修行したとしても、彼の禅の修行は、毛筋一本ほどの進歩もないのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-27につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>