3、潜伏性煩悩ーーいまはまだ行動、言語と心内において表現されていない煩悩。言い換えれば、今の所は、煩悩はないと言えるけれども、完全に煩悩がなくなったわけではなく、それらは、潜在的な状況において、存在している。
たとえば:皆で何かよい事をする時に生起する心は、善心と呼べる。善心を生起して、良いことを成すとき、イライラを感じないので、煩悩はない、と言える。
しかし、適当な条件に遭遇すると、煩悩はたちまちにして出現する。
たとえば、みなさんは今、一時的に仕事を横において、とても喜んでここに座って法話を聞いているので、煩悩はない:
しかし、法話を聞いた後に、仕事に戻り、やり残した仕事の山をみると、心はたちまちにしてイライラしてしまう。
そうでしょう?
ある種の人々は、仕事に成功すると、田舎に帰って隠居したり、または年老いて退職すると、のんびり暮らすことができるが、これは、世間の浮ついた名声や利益の奪い合いを淡々と見ていて、己自身は、その外にいて、求めるものは、なにもないと達観しているからである。
しかし、いったん生命の危機、親友との離別、財産の喪失などの意外な出来事が生じると、煩悩は即刻、立ち上がる。
これは、彼の煩悩は、目前の安定的な生活によって現れてこないだけであって、実は、彼の煩悩はいまだ断ち切れてはいない事を、意味している;そのため、いったん心身の内外に異変が生じたならば、煩悩はたちまちにして、蠢き始めるのである。
これは草にも似て、冬の間、すべての草は枯れて、死ぬけれども、根が残っていさえすれば、春になると、それらは芽を吹き返すのである。
またそれは草取りに似て、草だけを抜いて、根を抜き取っていないのであれば、それはまた芽を吹くのである。
煩悩は、その根ごと、引き抜かれていなければ、潜在的な状態で存在しており、そのため、これを潜在的煩悩、と言う。
違反性煩悩の表出は、身体の悪業または言葉による悪業であり;困惑性煩悩の表出は、意の悪業である。
潜在性煩悩は、いまだ表出されていない身・口・意による悪業の、潜在的な、隠れた患いである。
仏教、すなわち、覚悟者(=目覚めた者)の教えのその目的は、この三種類のレベルの煩悩を断つことである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(3-20につづく)
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<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>