Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「南伝仏教キホンのキ」(翻訳文)5-8

正念正知を育成するには、特定の時間、特定の場所、特定の姿勢を設定しなくとも、日常生活の中の時々刻々のうちに、正念を生起しさえすれば、この種の練習ができる:

正知でもって、何かの事柄に取り組む。

すべての事柄に対して、ただ、正知を保持すればよい。

ここでは、歩くということを通して、正念正知を保持するための、具体的な方法を説明する。

四種類の正知がある:

1.有益正知(sātthakasampajañña)ーー歩きたいと思ったとき、先に、行こうとしている場所は、有益な場所であるかどうか考慮し、もし、有益であれば、出向き、有益でなければ、出向かない。

2.適宜正知(sappāyasampajañña)――歩こうとする前、先に、今、出かけるのは(+時間的に)適切であるかどうか考え、適切であれば出かけ、適切でなければ、出かけないで、適切な時、状況になるまで、待ってから、出かける。

3.行処正知(gocarasampajañña)ーーここでいう ”行処” とは、定を修習するときに、決められた目標のことで、すなわち、業処のことである。

有益と適宜を選択した後、禅の修行における業処を、心の内における、一番重要なものとして位置づけ、歩くとき、時々刻々、持続的、継続的に、それを覚知する。

たとえば、歩くときには、己の呼吸への覚知を保持し、歩きながら、あれこれ妄想しないようにする。

4.無痴正知(asammohasampajañña)ーー歩くとき、持続的に観の修習をする。(+人が歩くという事は)一塊の名色法が歩いているだけであり、”私が歩いている”とか、”人が歩いている”などということはない。

心は、歩くときに生じる動作自体におき、それが正念である;

歩くことをはっきりとしることは、正知である。

一人の人間が歩きたいと思う時、ぼんやりと無自覚に、身体を動かして歩くのは、正念正知がない、という。

歩くときに、禅の修行の業処を、持続的に覚知することは、止の修行であると言える;

歩いているときの名色法を、持続的に観照すること、または、名色法の無常・苦・無我を観照することは、観の修行である。

立つとき、座るとき、横になるとき、前を見るとき、横を見るときなども、四種類の正知で理解することができる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-9につづく)

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ご協力、よろしくお願いいたします。

<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>