一切の行為は、みな心から始まる。生命の活動もまた同じである。
先に心が生じて(動機)、次に身体の行動と、言語表現が生まれる。
言い換えれば、身・口・意の三業の内、意業が最も重要である、ということである。
意業による主導的な作用があって、はじめて身業と、語業が生じる。
もし、動機が邪悪である時、なすこと、語ることは、みな、邪悪な、不善なものとなる。
不善業を為せば、因・縁の熟する時、苦が、不善の果報が、齎される。
もし、動機が純正であり、心の思いが清浄であるならば、なすこと、語られる事はみな、善であり、よいものとなる。
善業を為せば、因・縁の熟する時、楽が、善の果報が、齎される。
これは、まさに ”善には善の報い、悪には悪の報い” と言われるものである。
楽しい事柄、幸福の果は、つねに、善業や善き行為と関係している;
苦痛な、不幸な果は、また、つねに、悪い、善くない行為と絡まり合いながら、生起する。
善業と善報は相応しており、悪業と悪報は相応している。
これがすなわち、”業果の法則”、または ”因果律” と呼ばれるものである。
業果の法則は、独立的に運行されるものであり、それは決して、いわゆる神仏・菩薩が操作しているものではなく、また、人の願望によって変わるものでもない。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-13につづく)
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<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>