Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~4-43

ある種の比丘の、入息または出息は、始まりの段階では非常に明確だが、途中と最後が不明確で、彼はただ、最初の始まりの息だけを、はっきりと覚知し、専注することができ、途中と最後の息を覚知したり、専注したりすることができない。

また別の比丘(二番目)は、途中の息は明確であるが、始まりと終わりの息は、明確でない。

また別の比丘(三番目)は、最後の息は明確だが、始まりと途中の息が明確でなく、故に、彼は最後の息にしか、専注することができない。

また別の比丘(四番目)は、始まりの息も、途中の息も、最後の息も、三段階の息ともに、みな明確で、何等の問題もない。

この法門を修行する場合、四番目の比丘のようであるべきであるため、仏陀は以下のように言う:

「彼は以下のように訓練する。すなわち、『私は(息の)全身(=全体)を覚知しながら息を吸う。』

彼は以下のように訓練する。すなわち、『私は(息の)全身(=全体)を覚知しながら息を吐く。』」と。

この法門を修行する時の最初の方法は、吸う息、吐く息(+を覚知する)以外、その他の何らかの仕事をする必要性がない。

ゆえに言う:

「吸う息が長いとき、彼は知る:『私の吸う息は長い。』

吐く息が長いとき、彼は知る:『私の吐く息は長い』。

吸う息が短いとき、彼は知る:『私の吸う息は短い』。

吐き息が短いとき、彼は知る:『私の吐く息は短い』。」

そして、彼は、更にはっきりとした、明晰な覚知を高めるよう、尽力しなければならず、故に:

「私は(息の)全身(=全体)を覚知しながら息を吸う。私は(息の)全身(=全体)を覚知しながら息を吐く。」と(+仏陀は)いうのである。

呼吸をはっきりと知ることは慧学であり;呼吸に専注するのは定学であり;己自身の心を束縛して、煩悩を生じせしめないようにするのは、戒学である。

呼吸の(+覚知の修行の)内に、この三学を実践するよう、尽力・努力するべきである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-44につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>