ある種の比丘の、入息または出息は、始まりの段階では非常に明確だが、途中と最後が不明確で、彼はただ、最初の始まりの息だけを、はっきりと覚知し、専注することができ、途中と最後の息を覚知したり、専注したりすることができない。
また別の比丘(二番目)は、途中の息は明確であるが、始まりと終わりの息は、明確でない。
また別の比丘(三番目)は、最後の息は明確だが、始まりと途中の息が明確でなく、故に、彼は最後の息にしか、専注することができない。
また別の比丘(四番目)は、始まりの息も、途中の息も、最後の息も、三段階の息ともに、みな明確で、何等の問題もない。
この法門を修行する場合、四番目の比丘のようであるべきであるため、仏陀は以下のように言う:
「彼は以下のように訓練する。すなわち、『私は(息の)全身(=全体)を覚知しながら息を吸う。』
彼は以下のように訓練する。すなわち、『私は(息の)全身(=全体)を覚知しながら息を吐く。』」と。
この法門を修行する時の最初の方法は、吸う息、吐く息(+を覚知する)以外、その他の何らかの仕事をする必要性がない。
ゆえに言う:
「吸う息が長いとき、彼は知る:『私の吸う息は長い。』
吐く息が長いとき、彼は知る:『私の吐く息は長い』。
吸う息が短いとき、彼は知る:『私の吸う息は短い』。
吐き息が短いとき、彼は知る:『私の吐く息は短い』。」
そして、彼は、更にはっきりとした、明晰な覚知を高めるよう、尽力しなければならず、故に:
「私は(息の)全身(=全体)を覚知しながら息を吸う。私は(息の)全身(=全体)を覚知しながら息を吐く。」と(+仏陀は)いうのである。
呼吸をはっきりと知ることは慧学であり;呼吸に専注するのは定学であり;己自身の心を束縛して、煩悩を生じせしめないようにするのは、戒学である。
呼吸の(+覚知の修行の)内に、この三学を実践するよう、尽力・努力するべきである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-44につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>