仏陀はチャンナを黙擯したが、それは、彼が、これよりほかに、チャンナを調伏する方法がないことを、知っていたからである。また、そのほかには、その他のサンガの僧侶たちが、これ以上、精神的苦痛を受けないように、保護する必要もあったのである。
故に、彼を黙擯することは、すなわち、彼を殺す事でもあった。
一人の教師として、異なる人々を、それぞれ適切な方法で、指導する必要がある。
ある時、ある一人の西洋の修行者が、アーチャン・チャーを訪ねてきたーー彼はタイの東北地方の有名な禅師である。
彼はアーチャン・チャーに尋ねた:
「アーチャン、正しい事と、間違ったことについて、私はますます、分からなくなりました。ある時、あなたがあなたの弟子に話したことを(+私は人伝てに聞きますが)、また別の時に、あなたは別の人に、全く正反対の事を言っています。私は、あなたの話の内、そのどちらを信じればいいのでしょうか?」
アーチャン・チャーは答える:
「もし、私が高速道路で、ある車が、道路を右へ右へと運転していて、排水溝に落ちそうになっているのを見たならば、私は必ずや、運転手に、急いで左に寄りなさいと言うでしょう。
同じ道理で、私がもし、ある車が、道路を左へ左へと運転していて、同じく排水溝に落ちそうになっていて、危険が迫っていたならば、私は必ずや、運転手に、右に寄りなさいと言うでしょう。私は時には、左に寄れと言い、時には右に寄れと言うけれども、それは両者とも、危険から脱出できるようにするためなのです。」
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-12につづく)
★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
<ケーマ尼著「「目の中の塵」中国語→日本語
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>