南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-9

上記(1-8)の偈の中には、三つの要点が含まれていて、

そのうちの二点は、戒の範疇に属するものである:

一、不作諸悪ーー

身業に関して:不殺生、不偸盗、不邪淫;

口業に関して:不妄語、不両舌、不悪口、不綺語;

意業に関して:不貪婪、不瞋恚、不邪見。

二、善行の実践ーー

身業に関して:衆生の保護、布施、貞節;

口業に関して:誠実語、和合語、柔軟語、利益語;

意業に関して:出離、慈愛、正見。

三、清浄自心ーー一人の人間が、不作諸悪と、善行の実践という基礎を兼ね備えたならば、彼は、更に一歩進んで、諸仏のさらなる殊勝な教法を修行する必要があるが、それは、清浄自心である。

では、清浄自心とは何か?

それは止禅と観禅を通して、心内の煩悩を取り除き、涅槃の実相を徹底的に見て、究極解脱することである。

◆結論:

(一)戒は以下を含む:

1、不作諸悪;

2、善行の実践。

(二)戒清浄の修習は、修行者に心の無愧を齎す。この聖潔な心は、定を修習する基礎となる。

定とは何か

我々は、まず、先に、心清浄の育成とは何か、を考えるうえで、いくつかの問題を提議してみたいと思う。

問題一:

「定」とは何か?

回答一:

善き心による、一境への専注を「定」と言う。

《清浄道論・第三品・第二段》

多くの人々は、「定とは何か?定とは、善なる心による、一境への専注である」という所まで読むと、即刻、心による、一境への専注に思い至り、「善なる」の二文字の重要性を、おざなりにしてしまう。

≪中部・第44小方広経≫の中で、以下のような対話があったではないか?

ヴィサーカ(Visākha)居士が、「定とは何か?」と聞いた時、法施(Dhammadinnā)阿羅漢比丘尼は、以下のように回答した「定は心の一境への専注である」。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-10につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。 

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>