(一)心の専注とは何か?
非常に多くの修行者は、修習を始める、その最初に、己の心に雑念があることを発見すると、過度に心配し、憂鬱になる。
実際は、修行者が、雑念に追随しないか、または陶酔しない、という態度を取ることができたならば、己自身を必要以上に責める必要はない。
(+今の自分に)心内に雑念があるのは、正常な現象である。
たとえ、近行定の段階にあっても、雑念は、生起するものであり、ただ、心を修行の目標に、静かに、そっと、引き戻せばよいのである。
正しい心理状態とは、あなたの心が、禅の修行の主題を体験しておれば、それでよく、あまり過度に目標に固執、固守する必要はない。
まさに、一人のピアニストが、楽曲を演奏している時、彼は、目は楽譜を見ており、指はピアノの鍵盤を弾いており(ある時には、楽譜を捲るときもある)、足はペダルを踏み、耳では自分が弾いている音楽を聴いていて、身体は、音楽の旋律と共に揺れていることがある。
彼は、同時に、これらの多くの活発な動作を行うことができるが、その時まさに、彼は予備定の状態の中にいるのである。
同様に、あなたが定を修習する時、己の心を活性化させる必要があり、修行者は、心を死んだように、修行の目標の上に閉じ込めて、それを「定」の唯一の状態だと思っては、ならない。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-14につづく)
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>