南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-13

(一)心の専注とは何か?

非常に多くの修行者は、修習を始める、その最初に、己の心に雑念があることを発見すると、過度に心配し、憂鬱になる。

実際は、修行者が、雑念に追随しないか、または陶酔しない、という態度を取ることができたならば、己自身を必要以上に責める必要はない。

(+今の自分に)心内に雑念があるのは、正常な現象である。

たとえ、近行定の段階にあっても、雑念は、生起するものであり、ただ、心を修行の目標に、静かに、そっと、引き戻せばよいのである。

正しい心理状態とは、あなたの心が、禅の修行の主題を体験しておれば、それでよく、あまり過度に目標に固執、固守する必要はない。

まさに、一人のピアニストが、楽曲を演奏している時、彼は、目は楽譜を見ており、指はピアノの鍵盤を弾いており(ある時には、楽譜を捲るときもある)、足はペダルを踏み、耳では自分が弾いている音楽を聴いていて、身体は、音楽の旋律と共に揺れていることがある。

彼は、同時に、これらの多くの活発な動作を行うことができるが、その時まさに、彼は予備定の状態の中にいるのである。

同様に、あなたが定を修習する時、己の心を活性化させる必要があり、修行者は、心を死んだように、修行の目標の上に閉じ込めて、それを「定」の唯一の状態だと思っては、ならない。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-14につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>