上記(5-11)に述べたのは、修行の方法である。
禅の修行者は、禅修行の目標が顕現しない状況を知る必要があるし、また、以下のように思惟する必要もある:
「これらの入息と出息は、どこにあるのか?それらはどこにはないのか?それらは誰の中に存在しているのか?それらは誰の中に存在していないのか?」
このように思惟する時、彼は、母親の子宮内の胎児、溺水者、色界無想有情天の梵天神、死人、第四禅に入った者、色界または無色界に生まれたもの、滅尽定(滅尽定nirodha-sama-samāpattiは、心、心所、及び心生色法が暫定的に停止した境地)に入った者には存在していない、という事を発見する。
故に、彼は己自身に以下のように知らせる必要がある:
「あなた(=私)の智慧によって、あなた(=私)は、自分自身は、絶対に、母体の中にはいないし、溺水している訳ではないし、無想有情天にいる訳でもないという事を知り、または死亡しているかどうか、または第四禅に証入しているかどうか、または色界、無色界に生まれたかどうかを知り、または、滅尽定に入っている訳ではない事が知れる。
実際、あなた(=私)には入息と出息があるが、ただ、己の択法力が弱いために、それらを知ることができないだけなのである。」
その後で、心を、通常の場合において息が接触している場所に固定させ、引き続き、それに注意を払うべきである。
入息と出息は、鼻の長い人には、鼻先に当たり、鼻の短い人には、人中に当たる。故に、あなたは、以下のようにして、当該の相に専注しなければならない:
「ここが、それらのぶつかる所である。」
これが、なぜ世尊が:
「比丘たちよ。私は、正念のない人、徹底的に明覚していない人は、安般念を修行する事ができる、とは言わないのである。」と述べた理由である。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-13つづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>