南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-20

異なる人には、異なる形態の禅相が生じる。というのも、禅相は「想(=思い、以下同様)」から生じるからである。

禅相が出現する前、異なる禅修行者の異なる想によって、異なる禅相が生じる。

禅相は想から生じる・・・その根源は想である。異なる想から禅相が生じるのである。故に、それは異なる形式によって顕現するのは、想の差異を原因としているのだということを理解する必要がある。(《清浄道論》)

想の差異を原因として:禅相が生起する前に生じていた想の差異による。

これらの注釈によると、異なる禅相は、異なる想に依存して生じる。しかしながら、仏陀の教えたアビダンマ蔵のよると、想は、単独では生起できないものである。

それは、必ずや、その他の相応する名法と同時に生起する。

ここにおいて、もし、禅修行者が、愉快な心で、安般念似相に専注するならば、合計34個の名法(+があり)、そのうちには、触、思、一境性、作意、尋、伺、勝解、精進と欲が含まれる。

故に、想に差異があるだけでなく、一切の相応する名法にもまた、差異があり、非想非非想処禅(neva-saññānāsaññā yatanajhāna)は、まさにその一例である。

このジャーナと、その相応する法は、想がなく、また想がない訳ではなく・・・(+このジャーナがそのように呼ばれる)その理由は、粗い想はない、しかし、微細な想はある、ということにある。

ここにおいて、単に、想が、かくの如くであるばかりではなく、受もまた非受非非受、識は、非識非非識、触は、非触非非触である;

同様の形容法は、その他の相応する法にも適応することができる;

しかし、ここでは、想を用いて説明していることを理解する必要があるのである(《清浄道論・第10章・第50節》)。

同様に、安般念禅相もまた、想を用いて説明することを理解しなければならない。

我々は、後になって、先ほど述べた34個の名法について、開示と討論を行いたいと思う。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-21につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>