異なる人には、異なる形態の禅相が生じる。というのも、禅相は「想(=思い、以下同様)」から生じるからである。
禅相が出現する前、異なる禅修行者の異なる想によって、異なる禅相が生じる。
禅相は想から生じる・・・その根源は想である。異なる想から禅相が生じるのである。故に、それは異なる形式によって顕現するのは、想の差異を原因としているのだということを理解する必要がある。(《清浄道論》)
想の差異を原因として:禅相が生起する前に生じていた想の差異による。
これらの注釈によると、異なる禅相は、異なる想に依存して生じる。しかしながら、仏陀の教えたアビダンマ蔵のよると、想は、単独では生起できないものである。
それは、必ずや、その他の相応する名法と同時に生起する。
ここにおいて、もし、禅修行者が、愉快な心で、安般念似相に専注するならば、合計34個の名法(+があり)、そのうちには、触、思、一境性、作意、尋、伺、勝解、精進と欲が含まれる。
故に、想に差異があるだけでなく、一切の相応する名法にもまた、差異があり、非想非非想処禅(neva-saññānāsaññā yatanajhāna)は、まさにその一例である。
このジャーナと、その相応する法は、想がなく、また想がない訳ではなく・・・(+このジャーナがそのように呼ばれる)その理由は、粗い想はない、しかし、微細な想はある、ということにある。
ここにおいて、単に、想が、かくの如くであるばかりではなく、受もまた非受非非受、識は、非識非非識、触は、非触非非触である;
同様の形容法は、その他の相応する法にも適応することができる;
しかし、ここでは、想を用いて説明していることを理解する必要があるのである(《清浄道論・第10章・第50節》)。
同様に、安般念禅相もまた、想を用いて説明することを理解しなければならない。
我々は、後になって、先ほど述べた34個の名法について、開示と討論を行いたいと思う。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-21につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>