南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-14

ここでは、「心を平等にして専注する」という言葉を、決して、全く変化のない修行目標を死守するのだ、と言う風に、誤解してはならない。

この言葉は、心と、修行の目標の間にある、活発な相互交流を指している事を、理解しなければならない。

この種の相互交流は、種々の方式で進めることができる。それが平和的で、趣があり、創意に富んだものであれば、それでよい。

どうしてこのような交流を「平等に」と言うのか?

というのも、この種の交流には、「平和」という特質があり、故に「平等」であるから、である。

絶対に、「心をして正確に専注せしめる」ことを、一つだけの事柄に絞る(すなわち、あなたの目標に専注する事)事だけが正しいのだと、誤解してはならない。

実際は、あなたが行う事柄が、あなたの単一の主題を取り巻いているのなら、それは正解である。たとえば、上述(No1-13)のピアニストのように、ピアノを弾いている過程の中において、彼は予備定の心境の内にいる。

この時、彼の耳、手、足、身体は、皆同時に、異なる事柄を処理しているが、しかし、これらの事柄は、皆、彼の単一の主題ーー楽曲を演奏する事ーーを取り巻いているのであり、(+このようにする時)彼は一種の、非常に良好な、定の心境の内にいるのである。

同様に、あなたが定を修習する時、もし、あなたの一切の心身の活動が、定の修習という主題を取り巻いているものであり、この主題の軌道に従って前進するのであれば、あなたは、心と心所というこの(+修習に)関して、「正確に」(+心と心所を)据え置いておくこと、保持することを成し遂げていることになる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-15につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>