ここでは、「心を平等にして専注する」という言葉を、決して、全く変化のない修行目標を死守するのだ、と言う風に、誤解してはならない。
この言葉は、心と、修行の目標の間にある、活発な相互交流を指している事を、理解しなければならない。
この種の相互交流は、種々の方式で進めることができる。それが平和的で、趣があり、創意に富んだものであれば、それでよい。
どうしてこのような交流を「平等に」と言うのか?
というのも、この種の交流には、「平和」という特質があり、故に「平等」であるから、である。
絶対に、「心をして正確に専注せしめる」ことを、一つだけの事柄に絞る(すなわち、あなたの目標に専注する事)事だけが正しいのだと、誤解してはならない。
実際は、あなたが行う事柄が、あなたの単一の主題を取り巻いているのなら、それは正解である。たとえば、上述(No1-13)のピアニストのように、ピアノを弾いている過程の中において、彼は予備定の心境の内にいる。
この時、彼の耳、手、足、身体は、皆同時に、異なる事柄を処理しているが、しかし、これらの事柄は、皆、彼の単一の主題ーー楽曲を演奏する事ーーを取り巻いているのであり、(+このようにする時)彼は一種の、非常に良好な、定の心境の内にいるのである。
同様に、あなたが定を修習する時、もし、あなたの一切の心身の活動が、定の修習という主題を取り巻いているものであり、この主題の軌道に従って前進するのであれば、あなたは、心と心所というこの(+修習に)関して、「正確に」(+心と心所を)据え置いておくこと、保持することを成し遂げていることになる。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-15につづく)
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>