昨日、インターネットを見ていますと、オウム教団・サリン事件の中川死刑囚が、手記を発表した、とありました。
出版の動機は、二度とこういう事件が起きないように、との事のようです。
仏教(仏法)を学ぶのは、なかなか大変です。
これは学ぶに値する教えか、洗脳されていないかどうか、よくよく心しなければなりません。
少し学んで実践してみて、また少し学び、実践する。少し臆病に、ゆっくり目の方が、よいかも知れません。
「俺は悟った」とか「悟ったからには、どんな事でもできる」などと豪語しない事です(ひっこみがつかなくなって、他人に利用されます)。
悟った(ように見える)人を見ると、つい、あこがれてしまいますが、相手も人間、こちらも人間。あまり美化しすぎないのが肝要です。
仏教では、<依法不依人>と言います。
仏法を噛み砕いて、説法をしてくれる比丘や先達、善知識は、ありがたいものですが、大事なのは法であって、人ではありません。
仏陀は仏教の開祖ですが、仏陀以外に、教祖だとかなんだとか、持ち上げる必要はないのです(仏陀本人は、自分を持ち上げる人を批判しています。「私に会いに来る暇があったら、修行しなさい」と。)
かの教団の人々が、仏陀の教えた出家の227戒、いや、在家(または出家)の五戒だけでも守っていたなら・・・と、かえすがえす、残念に思います(第一条、不殺生。第二条、不偸盗。第三条、不妄語。第四条、不邪淫。第五条、不飲酒)。
南伝仏教では比丘は227戒を守りますが、その中に「他人の財産を、布施の名目で奪ってはならない」というのがあります。
オウムはこの部分でも、破戒しています。
タイや緬甸(ミャンマー)の南伝仏教(テラワーダ)では、在家仏教徒もよく戒と律を学び、出家比丘が戒律違反をすると、きっちり、厳しく批判します。
出家も在家も、<櫂(戒)より始めよ>では、ないでしょうか?