三番目の誤解・盲点は:
我々が「定の作用は散乱の除去である」と連想する時、我々は、非常に強烈な動機を秘めつつ、心内のすべての考えを取り除いて、定を育成しようとする。
しかしながら、このように実践する事は、定の作用を育成しているのであって、定の近因(=直接原因)を育成しているのではない。
実際の正確なやり方は、定の近因を育成することを通して、定を獲得しなければならない。
定を得て後ならば、定はおのずと、散乱を除去する作用を擁しており、あなたの雑念は自然に、ますます少なくなっていくのである。
ある人が問う:
「我々は、心がどこかへ出かけて行って、何かの考え事をすることを知覚した時、心は、定の修習の目標へと、引き戻さなければならないのではないですか?」
そうである、しかし、そのようにすることは、我々の主要な重点では、ないのである。
我々の主要な重点は、定の近因にある。
我々は、心をして、益々修行自身を享受させねばならない。
毎回の修行の時に、ますます多くの楽しさがあるということを通して、定は、おのずと生じてくるのである。
定力が深まるとき、それ自体が散乱を除去する。
あなたは、本当に、すべての雑念を取り除く事を通して、定を生じせしめるのだと思っては、ならない。
あなたが定の修習を始めるにあたり、あなたに一分(いちぶん)の享受がある時、あなたは一分の楽しさを感じることができ、まさにこの一分の楽しさにおいて、一分の定力が生じるのである。
この一分の定力とは、「散乱を除去する」作用であり、それは、雑念の生起を避けるのにとって、有効である。
そして、(+雑念が減ることによって)次には二分目の楽しさが生じる。二分目の楽しさは二分目の定力を生じせしめる。
このようにして、一種の良性循環が生じる:
軽微な定力は、雑念を生じさせない作用があり、そのことによって、更に強い定力を生むことになる。
上記の事から、我々は、近因を育成しなければならず、(+そのようにすれば)100%の「散乱の無い状態」は、最終的に、自然に出現するのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-22につづく)
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>