上述の経文に基づいて、我々は「定」の因を、下記のように、総括することができる。
正定が果である時の、その因。
1、心は五蓋から解脱している。
たとえば、他人を利益したいという清浄なる動機から修行するとき;
放下(=手放す)の精神で修行する時。
2、愉快な気持ち、喜悦、軽安(平静)の心で修行する時。
たとえば、適度な精進、適度な瞑想時間。
身体のリラックス度に応じて、徐々に瞑想の時間を延ばし、バランスのとれた心境によって、修行の目標を、経験する。
3、近因(=直接原因)ーー善なる楽しさ(執着のない楽しさ)。
邪定が果である時の、その因。
1、心は五蓋を伴っている。
たとえば、利己的な、自己中心的な動機で修行するとき;
強烈な執着の下、結果を追い求める心で、修行する時。
2、愉快な気持ち、喜悦、軽安(平静)の心を伴わないまま、修行する時。
たとえば、無理な精進、身体のリラックスの程度を無視して、長時間瞑想しようとする。
修行の目標に、過度に専注しすぎ、そのために頭痛などの副作用が起きる。
3、近因(=直接原因)ーー不善なる楽しさ(強烈な執着のある楽しさ)と焦り、脅迫性。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-27につづく)
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>