精神世界の事柄は、分からない事は分からないままに置いておき、分かるまで、心の中で温めた方がいい場合が、とても多い。
先日も、20 年来の疑問が一つ、イヤ、合計で3つ、解けました。
一つ目は、ラべリングの時に使う言葉への疑問。
今まで、(某仏教協会の指導によると)声を聴けば、名詞で「音、音」とラべリングするように言われていましたが、実は「聞いている」と動詞でラべリングするのが、正解(他の根門も類同)。
他人の話す言葉を、一音づつ分解しながら聞き取って、意味を付加しない(で冷静でいられる)のは、最高のレベルの聖者しかできない<技>だと思います。
凡夫は、声を聴くと同時に意味合いも知ってしまう(それほど心は、動くのが速いという事。無常迅速)ので、無理に「音、音」としないで、「聞いている」がよい。
「聞いている」とラべリングすると、凡夫は凡夫なりに、心に余裕が出来て、聞いている意味内容、対象に引きずられなくて済む(ただし、ラベリグの多用は良くないと思います。ラべリングは、ほどほどに)
二つ目は、最近、ゴエンカ・ヴィパサナー・センターから送られてきたメールを読んで、ハタと膝を打ちました。
ゴエンカ氏はすでに遷化されましたが、彼が生前残した言葉が時々、メールで配信されることがあります。
ある日のメール。
そこには「私の師であるウ・パキンは、『ラべリングをしてはいけない。』『ただ、静かに、呼吸を見なさい。呼吸を強くしたり、弱くしたり、止めたりしてはいけない。あるがままの呼吸を観るのです』と教えました」とありました。
在緬甸のインド人であるゴエンカ氏が、ウ・パキン師から(広義の)ヴィパサナー瞑想を教わった時代、緬甸人の間では、すでにラべリングの可否が、問題になっていたことが分かります(ラべリングに賛成であるとしても、名詞でラべリングしてはいけないのではないか、という問題も含む)。
日本は、ラべリングに賛否両論があることを知らないまま、「これぞ仏陀の教え」として、無自覚に受け入れてしまった 30 年近い歴史があり、現在、その副作用が問題になっています。要注意です。
三つ目は、八聖道の中に<正定>がある以上、それと対応する<邪定>というものがあるはずで、では<邪定とは何か?>という問題が、やはり 20 年間、分からないままに来た、ということです(少なくとも、私は、寡聞にして、納得できる説明を聞いたことがなかったです。)
今回「掌中の葉」(中国語版)を翻訳している中で、その回答を見つけました。これも 20 年来の疑問が一挙に解決した一瞬でした(「掌中の葉」No1-26参照の事)。
精神世界の問題で、「これはなんだか違うような気がする」「これはなんだか変だな」と思ったら、己自身の感性を信頼して、疑問が腹落ちするその日まで、雌鶏が卵を温める様に、私たちも、胸の中でそっと温めておきましょう(ペンギンなら、股の間ですかね~笑)。