Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~随所に主となる

先日、ある方のブログ(テーラワーダ仏教系)を読んでいて、禅宗への批判的な意見をみつけました。う~~ん、ちょっと違うな、と思ったので、反論を、ここに書きます。

彼は、禅宗で言われる「随所に主となる」というフレーズを、<仏陀は無我(私はいない)を説いたのに、禅宗は、どこにおいても俺様意識を持てといい、俺様意識を肯定している。我執を容認する禅宗は、間違っている>と言うのです。

禅宗で修行している方々は、<無我>は、分かっている、と私は思います。

毎日瞑想していれば、「はは~~、  <私がどうした>

 <私がこうした> <私はどうされた云々>という俺様意識は、一種の幻想だな」という事は、分かってきます。

禅宗は、達磨大師が中国嵩山少林寺に入って伝えた瞑想を、2000年も続けてきた宗派です。

2000年もやってきて、そこのところを、知らないはずがありません。

「随所に主となる」は、そのこと~私はこの身体である、五蘊である、という俺様意識は、脳による幻想である~が分かった上で、業の主人になりなさい、業に引きずれて生きるな、という警告と励ましだと思います。

ゴータマ仏陀は、人生で携えていけるのは業のみ、と言っています。

また、人間だけが、業を、受け身でなく、自分自身で積極的に変えることが出来ることからも、無我~俺様意識は幻想~であっても、業の主にはなれるのです・・・否、業の主人にならなければならないのです。

この事は、殺人鬼アングリマーラの物語に、ヒントが隠されていると思います。

もう一つ、彼は、禅宗で言われる「無分別知」を批判していました。

どうやら、「無分別知」を「分別するな」「馬鹿になれ」という意味に取ったようです(馬鹿になったせいで、とんでもない事件を起こした教団がありますから、この方が、何を心配しているのかは、理解できます)。

「馬鹿になれ」という指導が、有効な時はあります。大昔のことですが、非常に喧嘩っ早い比丘が、指導者に「馬鹿になれ」と諭されているのを見た事が有ります。

これは身口意を清めるため、口を慎みなさい、何かというとすぐ手を出すのは控えなさい、何を言われても知らないふりをしていなさい、と教えていたのだと思います。

しかし、本当の馬鹿になっては、いけません。

では、「無分別知」の本当の意味は何でしょうか?それは、対象を理解する時、その対象を分断してはいけない、という事です。

分別は、分断という意味で、「無分別知」とは、対象を分断しないでまるごと見る智慧、です。

ここに多くの人を殺害した凶悪犯がいるとします。これは、彼の因と縁が熟したために出た行為です。しかし、もし、彼が結婚していて、孫でもいたら、案外、好々爺かもしれません。

相手をまるごと理解する。実は、言うは易し・・・なんですね。

禅定に入って、宿命通(神通の一種)をもって観察すれば、相手を丸ごと理解することができます。しかし、宿命通を持っている人が、そこかしこにいるとは、思えません。

凡夫なら、軽い禅定に入って相手を観察し、なるべく多面的に理解してあげる・・・これくらいが精いっぱいでしょうか?

他人の権威を借りるのは好きではないのですが・・・、『無我』という著書を残して遷化されたタイのブッダダーサ尊者も、中国の禅宗が好きで、『六祖壇経』のタイ語訳をなさっています。「無我」と「随所に主となること」は矛盾しないのです。

いやはや、仏教は難しい(日々、瞑想と気づきの実践を積み重ねていけば、少しづつでも前進できる。仏教を、哲学として、抽象概念化して、頭で考えると、非常に難しい。畳の上の水練が役に立たないのと同じです。)

なお、ブッダダーサ尊者の『無我』は、すでに日本語に翻訳されて、ブログに公開されています。興味のある方は、去年あたりを検索してみて下さい。

追伸:私は「無我」を一把ひとからげに<私はいない>と置き換えるのには、反対です。「無我」の意味は重層的で、その意味は、文脈に依存します。このことはまた別の機会に。